日英薬剤師日記

イギリスの国営医療(NHS)病院で働く、臨床薬剤師のあれこれ

喜劇王チャップリン幼少期ゆかりの場所を訪ね、英国の医療の昨今について考えた

 

マニアックな話かもしれませんが、今日は、英国人喜劇王チャーリー・チャップリン(写真下⬇︎)の生誕130年の日です。

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©️Roy Export SAS


通った都立高校の英語の授業で、チャップリンの生涯が描かれた副読本が使われていた。

その教科書、当初は英語の勉強のためだったはずが、チャップリンの波乱万丈の人生が面白く、全てを暗記するまで、何度も、何度も、繰り返し読んだ。あまりに読み込んだため、学校で配布されたものはボロボロになってしまい、自ら自転車を漕いで、その出版社(→杉並区高円寺にあった桐原書店)まで出向き、2冊目を購入したほど。私、オタク的な気質があるからねえ。。。(笑)

それでも飽き足らず、後に、チャップリン自身の自伝も読んだ。

だから、私、チャップリンの生年月日から始まり、もろもろのトリビア、結構知っているのよ(笑)。

 

チャップリンは、南東ロンドンのランベスと呼ばれる地区で生まれ、その周辺で育った人。

私は、現在、そこからさらに南下したロンドン郊外の街で暮らしている。

 

英国へ移り住むようになってから長いこと「あの高校生の時に読んだチャップリンの本に出てきた、ロンドンの場所の数々を、自分の足で訪れてみたいなあ」と思っていた。

実は、私、渡英して2−3年目は、このエリア周辺に住んでいたことすらある。

でも、その頃は、大学院の卒業やら、英国での最初の就職活動などで必死で、そんなことをする余裕が(全く)なかったんだよね。

 

で、先日、思い立って、その「長年の想い」を、(ちょっとだけ)実現してみたんだ。

 

という訳で、今回のエントリは、チャップリンの幼少期にまつわる場所のいくつかを、実際に訪れてみたレポート。その当時の英国の医療事情に焦点を当てて、解説。

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ロンドン地下鉄ノーザンライン、ケニントン駅。チャップリンにゆかりのある場所はこのエリアに多いため、今回は、ここから出発

 

チャップリンは、1889年4月16年に、ミュージックホールの俳優・女優同士であった、父チャールズ・チャップリン・シニアと、母ハンナの間に生まれた。

チャップリンは、母ハンナが産んだ男兄弟3人の真ん中なのだけど、兄も、弟も、それぞれ父親が違う。要するに、全員が異父兄弟。母ハンナは、チャップリンの兄が生まれて数ヶ月も経たないうちに、前夫の元から逃げるように、チャップリンの父と結婚。でも、弟の方は、チャップリンの父が、アメリカ公演で不在だった折、父の俳優仲間との不倫の末、生まれた子。だから、チャップリンの父とはそれがきっかけで、離婚。そんなことから、色々な男性遍歴のあった人のよう。

母ハンナは、チャップリンの父に比べれば、地方巡業が主な、ぱっとしない女優だったらしい。しかも、チャップリンが5歳の時までには、声を完全に潰してしまい、女優生命を絶たれてしまった。舞台で全く歌えず、観客から野次が飛び、立ち往生をしていた母を舞台袖から見ていた幼いチャップリンが、自ら即興で、その舞台に代理として立って大喝采を受けたのが、のちに世界の喜劇王となる人の初舞台であり、母の引退公演となったんだって(→桐原書店の副読本は、このシーンの記述が冒頭になっていた。我ながら、よく覚えているよねえ(笑) )

で、父と離婚し、母が無職のチャップリンの家庭は、貧困で暮らすこととなる。自伝の中で、「屠殺場とピクルス工場が近くにあった通りで、母親と暮らした」というくだりがあるのだけど、その場所が、ここ(写真下⬇︎)。この家と通り周辺は、後の彼の大ヒット作「キッド」の物語のモデルとなった。

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正面の建物の階上が、母親ハンナとチャップリンが、間借りして暮らていた部屋。

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住んでいた部屋を間近から撮影した写真。英国で、著名な人が住んでいた史跡的な場所は「ブループラーク (Blue Plaque)」と呼ばれる碑が掲げられている

 

ここ、現在は、チャップリンが幼少期を過ごしたスラム街だったなどとは想像できないほど、様変わりしている。ロンドンの中心地に近いから、国会議員とかも好んで住むエリアになっている。

でも、周辺の、こんな袋小路のような小道(写真下⬇︎)を見ると、その当時の雰囲気が、多少は感じ取れる。

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窓を現代的な材質にすることにより、家屋の外装はモダンにリノベーションされているけれど、この通り、チャップリンの映画「キッド」の舞台となった町の雰囲気が、そこはかとなく感じられる。

 

で、チャップリンの母ハンナは、貧困での生活の中、最初は激しい頭痛から始まり、のちに精神異常を発症。

近年書かれた、チャップリン研究家の本によれば、母親の精神異常は、梅毒からくるものであったことが、ほぼ確実となっている。

ビクトリア時代、女性が働く口はほとんどなかったはず。チャップリン自身の自伝では「母は、時々、お針子をしていた」と記述されているけれど、実際には、娼婦として生計を立てていたのが本当のよう。それが、その後のチャップリンの生涯へ影を落とし、彼の後期の大ヒット作「ライムライト」のストーリーの一部となった。実生活では、性病を異常に恐れ、それが彼の悪名高き、未成年の女性たちへの傾倒に繋がったとされる。

 

ところで、私、本業が「感染症専門薬剤師」。この、チャップリンの母ハンナの病気を、考察してみたのだけど。。。

原因不明の「せん妄」が起きたら、精神症状以外にも、尿路感染症、脳髄膜炎、もしくは、梅毒などを(も)疑え、って、現代の医学診断では、常識。でも、その当時、梅毒には効果的な治療もなく(→世界初の特効薬と言われたサルバルサンは、ドイツ人エールリヒと、彼の元へ留学していた日本人の秦佐八郎が1910年に発見)、チャップリンの母の、神経障害が主症状だった梅毒は、「貧困が元で、気が狂ってしまった人」として片付けられてしまっていたのだろうな。。。。

 

哀しい。

 

いずれにしても、母親ハンナの病状は年々悪化し、病院への入退院を繰り返し、その後は精神病患者施設へ長期収容せざるを得なくなっていった。保護者のいなくなってしまったチャップリンは、救貧院へ入ることとなった。その施設「ランベス救貧院」の跡地が、こちら(写真下⬇︎)。前述のチャップリンが幼少期住んだ家から、歩いて、わずか15分程度の場所。

 

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ランベス救貧院 (Lambeth Workhouse) 跡地入り口。後ろの建物は、現代の高層公団。ロンドンは、古いものと新しいものが混在する街

 

で、ここ、観光ガイドブックとかにはおよそ載っていなさそうな場所なのだけど、今回、自分の足で訪れてみて、英国の医療の「昔と今」を垣間見る、思いがけない機会となった。

ちなみに、救貧院とは、英語で「workhouse」 と言う。ロンドンの現存する、古風な建物が特徴の病院、もしくは、その跡地の起源を調べてみると「元救貧院」であったものが多い。私が、英国で最初に就職した病院もそうだった。

私が、英国で最初に就職し、プレレジ(仮免許)薬剤師研修もした病院については、こちらからどうぞ(⬇︎)

 

昔の「病気」と言えば、現代の主な死因であるガンや心疾患、認知症などとは全く異なり、栄養失調由来の病気や、衛生状態の悪さからくる感染症、結核、そして、診断法・治療薬がなかった故に、一言で片付けられていた「精神病」が主なものだったんじゃないかな?

だから;

「貧困を救済する」ことこそが、医療だったのでは?

という考えが、今回、ここを訪れることにより、自分の頭の中で、すとーんと、腑に落ちた。

 

で、この元ランベス救貧院跡地の一部、現在「建築保存区」となっている。その一番の目玉は、入り口のすぐ近くで、当時の建物そのものを使用し開館している「シネマ博物館」(写真下⬇︎)

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チャップリンが過ごした救貧院時代からの建物をそのまま使用している「シネマ博物館」

この救貧院、元々は、800名ほども収容できる広大な敷地だったとのこと。敷地内には小さな病院も運営され、チャップリンの母ハンナも、原因不明の頭痛と倦怠感(→梅毒の初期症状)から、一時ここに入院し、母子共々、世話になっていたこともあるそうだ。 

 

で、今回、この史跡跡地をくまなく歩いているうちに、一般の訪問者だったら、絶対に見過ごしてしまうであろう、 国営医療サービス (NHS) の建物を、隅っこで発見した。

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こちらの「精神科特別ケアセンター」は、英国随一の精神科専門病院と言われる、モーズレイ病院群 (South London and Maudsley - 通称 SLAM) 管下のサービス。

現在、英国の精神病治療は、病院へ長期入院させず、「できるだけ市井で、普通の生活が送れるようにする」のが原則。

100年以上前のビクトリア時代から貧困・精神病患者を救済してきた、この救貧院の歴史の流れを受け継ぎつつ、でも、医療サービスとしては「収容施設」から「短期滞在・デイケアセンター」へと現代的に変革しており、興味深かった。

 

そして、この元ランベス救貧院跡地のもう片隅には、このエリアの超大型大学病院である、聖トーマス病院 (St Thomas' Hospital) 付属の「鎌形赤血球症・サラセミア(地中海性貧血)」外来クリニック(写真下⬇︎)も所在していることも発見。

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アフリカ系移民の多いこの地域の住民の医療ニーズに沿った「鎌形赤血球症」や「サラセミア」の外来クリニックも見つけた

チャップリンが生まれ育ち、幼少期を過ごしたこのエリア、現在は、アフリカ系移民が多い地域としても知られている。

私、英国に来たばかりの頃、大学院の実習の一環で、鎌形赤血球症の患者さんに接した。「高校の生物の教科書で学んだ(異次元の疾患のように思えた)病気の人が、今、ここに、私の目の前にいるんだ!」って衝撃を受けた。その「私、今、本当に、国際都市の医療機関にいるんだな」って、認識したその瞬間、今でも鮮明に思い出せる。

そんな患者さんたちが、いつもは、ここでの外来に通院し、具合が悪くなると、最寄り病院の、私が実習していた病棟へ入院してきていたんだなあ、と今回、これまた、長年の謎が解けたようで、感慨深かった。

その時代のことについての、回顧エントリは、こちらからどうぞ(⬇︎)

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「鎌形赤血球症」の治療に、英国で使用される薬は、こちら

 

そんなこんなで、今回、チャップリン幼少時ゆかりの場所と、そこから関連した医療機関を訪れた最後に、「聖トーマス病院」へも久しぶりに立ち寄ってみた。前述のランベス救貧院跡地から、バスで10分ぐらいの所。

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「聖トーマス病院 (St Thomas' Hospital) 」をテムズ河岸から撮影。左側が近代的な新館。右側がビクトリア時代からの旧館

チャップリンの父親は、アルコール中毒による肝硬変で、この病院で、38歳の若さで亡くなった。

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チャップリンの父が亡くなった頃から使用されていたであろう建物も、まだ現役の病棟として使用されている

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病院の内装で、このようにビクトリア朝の荘厳な雰囲気がそのまま保存されている場所もある。 ちなみに、ここ、公衆トイレに行く途中の廊下

母ハンナよりは、世間的に成功していたチャップリンの父親も、晩年は破産し、医者にかかるお金がなく、俳優仲間からの義援金により、この病院に入院できた。でも肝硬変はすでに手遅れになった状態で、わずかな入院期間の後、この世を去った。

ビクトリア時代、医療というものは、本当に贅沢なもので、お金がない故に、命を落とした人、若くして亡くなった人が、無数にいたはず。

 

英国では、第2次世界大戦後より、国営医療サービス (NHS) が発足し、それ以来、全ての者へ医療が無料で提供されている。そして、その医療サービスも、あらゆる面で国家標準が定められ、医療機関間などで格差があることは(基本的には)ない。

必要な治療とあらば、どんなに支払い能力がない人、移民や亡命者でも、手を差し伸べる。性病、長期の精神病、アルコール中毒者の解毒、肝硬変、鎌形赤血球症の治療も、全て無料で行う。

 

世界に誇るべき、偉業だと思う。

 

まあ、従業員として働いて、内部で観察すると、色々と問題のある医療サービスではあるけれどね。。。。(苦笑)

 

チャップリンが幼少時代を過ごしたエリアを歩きながら、英国の医療の昨今を、色々と考えた。

 

では、また。