このエントリは、シリーズ化で、前回の話はこちら(⬇︎)になっています。
2003年9月、周りの日本人薬剤師の友人たちが、次々と就職先を見つけていっていた。
そして、私は、この頃から、恥も外聞もなく、周りの人の助けを求めていった。
英国での職が欲しい一心で。
日中、ロンドン大学薬学校でアルバイトをしている時、講師の一人がたまたま私の働くオフィスに入ってきた。アリス先生という、私の大学院時代の実習病院の指導薬剤師(=薬局教育部長)の下で働いている主任薬剤師さんだった(ちなみに話が脱線するが、英国では、病院・街の薬局を問わず、実務薬剤師がパートタイムで薬科大学の講師をしている場合がたくさんある。学生に実践的な教育を提供する意味でも、これは素晴らしいやり方だと思う)。
当時、私がロンドン大学薬学校で仕事をしていた経緯は、こちら(⬇︎)からどうぞ。
私のロンドン大学薬学校大学院時代の、実習病院についての思い出についての過去のエントリは、こちら(⬇︎)からどうぞ
アリス先生、いつもながら、天使のような笑顔で「元気? 調子はどう?」と聞いてきた。
思い余って、こう答えた。
「ファーマシーテクニシャンの仕事を探しているんだけど、うまくいっていないんだ」。
そうしたらアリス先生、一瞬にして私の状況を察知し、
「応募している職の募集要項、今、手元にない? 見せて」と。
その場で、この先生から「英国国営医療 (NHS) 病院薬局への就職の秘訣」というか「極意」を教えてもらった。
求人広告の募集要項には「Personal Specification(どんな人を求めているか)」と「Job Description(具体的な仕事内容)」が含まれている。
英国国営医療 (NHS) 病院薬局への就職方法についての過去のエントリは、こちら(⬇︎)からもどうぞ
一にも二にもこれらを隅々まで熟読すること。そうすれば、面接試験で聞かれる質問の大半は予想できてしまえる、ということを学んだ。そして、それらの質問に沿った、他の応募者よりも抜きん出るような「売り込み方」を、具体的に教えてくれた。
例えば、私がその時手にしていた求人募集要項には「どんな人を求めているか」という一覧表のなかの1つに「継続的に職能開発を行なっている人」と書かれてあった。それに対し、アリス先生は;
「絶対に、自身の『ポートフォリオ』を作成し、面接試験会場に持っていきなさい」
と助言してくれた。
ポートフォリオとは、一言で言えば、自分の業績の数々を、ファイルにしてまとめたもの。ちょうどその頃 (2000年代前半) から、英国の薬局界で流行ってきたものであった。
「え? 私、人に誇れるような『見せびらかせるもの』、何にもない。。。」と消え入るような声で答えると、
「あんなに素晴らしい修士論文を書いたじゃない! あの卒論を持っていくだけで、この募集要項に羅列されている、『物事の分析ができる人』、『論理的な英語が書ける人』、『コンピューターの知識がある人』、『段取りができる人』、『プロジェクトを遂行できる人』であるということを全てひっくるめて売り込めるわよ」と。
それから、
「大学院在籍中に症例発表したパワーポイントのスライドをプリントにしたものも持っていくといい。『英国のファーマシーテクニシャン程度の薬学知識どころではなく、臨床薬学知識があるんですよ』ということを実物で証明できるし、『人前で英語で話ができます』、『パワーポイントを使いこなしてプレゼンもできます(→注:2000年代前半、英国の薬局では、パワーポイントはまだ一般的には使用されていませんでした)』ということも、それ一つで示せるでしょ」
「それに、自分のポートフォリオを就職面接に持ち込むという行為自体で『私は、ポートフォリオ作成という、英国の薬局の最新情報に精通しています』っていうことを、面接官たちに誇示できるわよ」
とアリス先生は、次から次へと、私を英国の国営病院の薬局スタッフとして売り込むための「セールストーク」を一緒に考えてくれた。
以上は、ほんの一例であったのだけど。。。
なるほど👀👀👀。自分を市場で「価値のある『商品』」として売り出すって、こういう風にするんだ! と目から鱗の学びだった。
アリス先生は、いつでも、どんな学生にも、さり気ない助けの手を差し伸べていた。先生という役職からの見せかけだけの親切ではなく、こちらがびっくりするほどの親身さで。だから、この受けた恩は、絶対どこかで返さなきゃ、と自然に思える人。
先生は現在、英国南部ブライトン大学付属病院の薬局教育部長になっている。
今日に至るまで、私にとって、英国の病院薬局業界の中で、心から尊敬する「ロールモデル」の人。
それから改めて、自分の就職応募用紙のテンプレートを、当時住んでいた学生シェアハウスの管理人であるメアリーさんに見せた。
メアリーさんについての過去のエントリは、こちら(⬇︎)からどうぞ
じーっと無言で、長い時間をかけて読んでいた。そして、色々と思いついたのか、その場で、次々に添削をしてくれた。その過程で、私の「想い」をじっくりと聞き出し、それを的確に汲み取った絶妙な内容にしてくれた。メアリーさんは、元々英語の先生だったということもあり、私の応募用紙は原形を留めながらも、まるで「全身整形」されたかのごとくインパクトのある文面に仕上った。感謝の言葉がなかった。
そして、そのメアリーさんが手直ししてくれた応募用紙を、その当時住んでいた学生シェアハウスの住人全員にも読んでもらうことにした。彼らの多くは医療系の学生であったため、その角度からのアドバイスが欲しかったのだ。
すると、ある人は「ここは、こういう言い回しにすべきだ」とか、またある人は「こういう内容を含めた方がいい」などと、さまざまな意見が出てきた。それら全てを、自らの判断で、取捨選択していった。
だから、私の応募用紙は、最終的に、当時、私の周りにいた約20人ほどの友人・知人の善意よる『共同作品』となったのだ。その結果、応募用紙自体は、非の打ち所がないほどのレベルになっていった。
日本人薬剤師の友人である M さんは、彼女の実習病院先の指導薬剤師さんから特別に入手したという「その病院のファーマシーテクニシャン雇用の際の実際の面接試験問題」を、私に譲ってくれた(写真下⬇︎)。
この「標準質問リスト」と、私自身のそれまでの就職面接で聞かれた質問の数々を全て紙に書き出し、自分なりの答えを文章化し、台本を作っていった。そして、それらを全て暗記し、スラスラと自然に言えるようになるまで、練習を重ねていった。
面接試験をかなりの数受けて合格した日本人薬剤師の友人の A さん曰く「質問とその受け答えは、全て事前に想定していくぐらいにしておかないとダメですよ。ああいった面接試験のような緊迫した状況では、咄嗟に聞かれても(私たちは、語学の壁もあるし)プレッシャーでうまく答えられる訳がない」と。
そのため、面接に呼ばれる度に、その病院の特色に合わせた「予想問題」も自分で考え、その答えも逐一作っていった。
英国で同時期に就職活動をしていた日本人薬剤師の友人たちについての話は、こちら(⬇︎)からもどうぞ
住んでいた学生シェアハウスに、エイミーさんという、ロンドン大学キングスカレッジ看護学部の最終学年に在籍し、つい先日、聖トーマス病院の新人看護師の職に合格した、という英国人がいた。要するに、英国内のエリート中のエリート看護師の卵であった。
彼女に一度、面接の練習を付き合ってもらった。普段は物静かで(正直)存在感の薄い人だった。でも、自分が面接官の前で行ったというパフォーマンスを再現してもらったところ、まるで別人のように「明るくてノリノリ」な人に豹変した。そして、質問一つ一つに「私が一番です!」と言い切っていた。
「英国人が、面接の際、どれほど『自分を誇示する』パフォーマンスをするのか」を目の当たりにし、とても参考になった。
みんな、私に助けを差し伸べてくれた、いい人たちだった。
9月の中旬、北ロンドンに所在する「ウィッティントン病院」というところから面接の招待状が来た。
ロンドン市内でも、薬局サービスで定評のある病院であった。かつ、それほど大きな大学病院でもなく、もし合格した暁には「心からここで働きたい」と思えるような病院薬局であった。
そして、私自身、密かに、恐らくこれが「英国での就職の最後のチャンス」になるかもと、覚悟していた。当時の滞在許可であった学生ビザの有効期限が、その月末までであったからだ。
だから、この面接試験にかける意気込みは、我ながら半端ではなかった。
そして、迎えた面接試験日。
今まで準備してきたことを全て出し切るような気持ちで望んだのだけど。。。
この面接は、今までの試験とはちょっと趣向が異なっていた。その当時、英国の病院薬局で最新の話題であった「ファーマシーテクニシャンの職能拡大」の質問に面接時間の大部分が割かれており、導入し始めたばかりであった「最終監査ができるテクニシャン」や、「臨床薬剤師を補佐する病棟テクニシャン」の役割、そしてそれらの高度能力を持つテクニシャンを実際の現場でどう活用していくか、その利点・欠点などを面接試験官たちの前で具体的に論じなければならなかった。実のところ、英国でファーマシーテクニシャンとしての職経験がない私には、面接官が期待しているような回答が、いまひとつ提示できなかったのだ。
何とか取り繕って答えようとする私の受け答えなど、面接官たちには全てお見通しだった。特に面接官の一人は「こいつ、口からでまかせを言っているな」と射るような目つきで、苦笑するのをこらえている様子だった。
ところで、こちらの病院、リチャード・ウィッティントン卿 (Sir Richard 'Dick' Whittington) という英国人を冠した病院である。
ウィッティントン卿とは、14-15世紀にかけて、貧困から身を立て、苦労の末、ロンドン市長になった人。英国では「立志出世伝」の最たる例として語り継がれており、没後数百年経った今なお、ロンドンのそこかしこで、彼の業績を偲ぶものが見てとれる。
彼の生涯での有名な話の一つに、若い頃、奉公先での仕打ちに耐えかね、故郷へ帰ろうとした時のエピソードがある。その逃げ出す途中で、高台の丘にいた時、ロンドン市内のとある教会の鐘が鳴った。振り返ると、その鐘の響きが、彼には、こう聞こえたという。
「奉公先に戻り、諦めず、頑張りなさい。おまえはいずれ、ロンドン市長になる人なのだから」
で、この若きウィッティントン卿が「鐘の音に振り返った」という場所に建てられたと言い伝えられているのが、現在のウィッティントン病院の所在地なのである。
そんな逸話が頭をよぎりつつ「これが英国での就職の、恐らく最後のチャンスだ」と思っていた私は、藁にもすがりたい思いだった。
「神様、何としてでも、ここに合格させて下さい」
と、面接試験終了後、この病院の庭の木の下に、日本から持ってきていたとっておきの5円玉を、祈るような気持ちで埋めた。
「どうか、ここにご縁(5円)がありますように。そして将来は、ウィッティントン卿のように、志を貫いた人になれますように。。。」ってね。
でも、その祈りも虚しく、この病院薬局も不合格だった 。
やはり、こういうことは、神頼みではなく、自分の実力で合格しないとね。
度重なる就職面接試験の不合格に打ちのめされていたその頃、日本人薬剤師の友人の M さんから電話があった。
同時期に英国でファーマシーテクニシャンの職を探していた日本人薬剤師の友人の K さんが、英国東部リンカンシャー州での病院薬局での就職面接に合格した、との知らせであった。
K さんは、M さんも私もロンドン市内の病院薬局で仕事を探していることを考慮し、主に地方病院の求人に募集していた。そして、今回が初めての就職面接試験で、一発合格だったというのだ。
K さんはこの就職面接試験が終わった後、M さんと M さんのボーイフレンドの P 君と一緒に、英国北西部の湖水地方での休暇へ出かけていた。そして、その旅の最中に、電話で合格通知を受け取ったのだった。
「K さんったらね、嬉しさのあまりその場にへたり込んでしまって、それから長らく立ち上がれなくなってしまったのよ。あはははは。。。。」
M さんの屈託のない笑い声が、受話器を握る私の耳から遠のいていった。
英国での就職は、やはりロンドンが最も競争倍率が高い。地方都市で仕事を探せば、当時は国全体で薬局の人員が不足していた時代でもあり、労働許可書を持っていない外国人でも国営医療 (NHS) 病院に比較的容易に就職できることは、私自身も理解していた。
でも、私は、どうしても、ロンドンに残りたかったのだ。
ついに、周りの日本人薬剤師の中で就職できていないの、私だけになっちゃったな。。。。
そして気づけば、自身の学生ビザが切れる日まで、2週間を切っていた。
この続きの話は、後へ続きます。
では、また。