このエントリは、シリーズ化で、前回の話はこちら(⬇︎)になっています。
ほうほうのていで、日本へ帰国し、実家へ戻った。
毎日を無気力で過ごす娘に、両親は多くを問い正さなかった。
その頃、2人がどこまで私の内情を知っていたのかは、未だに分からない。
しかし、であった。
日本へ帰国し、数日も経たないうちに、実家へ次から次へと FAX が送られてきた。
差出人は、何と、数日前まで住んでいたロンドンの学生シェアハウスの管理人のメアリーさんからであった。
私が英国での就職活動に必死であることを知っていた彼女は、純粋に善意の親切心から、私宛の封書を全て開封していたのだった(→でも、私の事前許可なしにであったから、これは厳密に言えば、個人情報機密侵害であったとも言える😅)。
そして、メアリーさんは「就職面接招待状」が複数来ていることにびっくりし、「万が一の緊急連絡先」として残していった私の実家へ、国際電話料金で連絡をよこしてくれたのであった。
メアリーさんからの FAX は、それからも毎日、毎日、やってきた。
この就職活動を通じ、メアリーさんから受けた数々の恩の詳細は、過去のエントリ(⬇︎)もどうぞ
そして、極めつけが、これであった。
溺れる者は藁をも掴む思いで「実務経験」の機会をお願いしに行った、北ロンドンのノースミドルセックス病院の人事課から「2003年10月より、無給実務研修の受け入れをします」との通知が届いたのだ。
その手紙と契約内容の全ページも FAX してくれたメアリーさんからは;
「一体、いつ英国へ戻ってくるのよ? 休暇なんて呑気なことを言っている場合じゃないわよ」との、手書きのメッセージが添えられていた。
職経験が欲しくて、ロンドン中の国営医療 (NHS) 病院を当たった一部始終は、こちらの過去のエントリ(⬇︎)からどうぞ
その FAX を手に取り、じっと読んでいる時だった。
母が、突然、銀行通帳を差し出し、ぽつりと、こう言った。
「ここに、100万円があるの。これを使って、英国へ戻りなさい」
と。
私が、先立つものがないゆえに英国に戻れないこと、母、お見通しなのであった。
それまで、いつも英国行きを反対してきた母が、その時、全く思いかけず、手を差し伸べてくれたのだ。
実際の所は、たとえ英国へ戻っても、就職できる確約はなかった。
それより何より、滞在ビザが発行される正当な理由もなく、入国できるかさえおぼつかなかった。
でも、私は、一か八かの賭けに出たのだ。
母の大切な100万円を使って購入した、ロンドン行きの航空券(写真下⬇︎)を握りしめて。
今では考えられない状況であるが、その当時、英国の入国審査は、短期・長期を問わず、全て空港で行われていた。
長期滞在の場合は、原則;
1)英国へ滞在する目的が証明できるもの(学校の入学許可書や、職場からの契約書など)
2)復路(日本帰国)の航空券を持っていること、
そして
3)経済力を保証できるような証明(通常、日本の銀行が発行した英訳銀行残高証明書)
が提示できれば、滞在できるか否かが決定され、パスポート上にその有効期限の入ったビザスタンプが押された。臨場的に判断されるため、担当になった入国審査官の配慮に委ねられるケースも多く、厳しい審査官もいれば、寛容な方もいるのが事実だった。
さて、その時の私の往復航空券の購入であったが、通常、長期滞在ビザ発行に必要なオープンチケット(=通常6-12か月後の帰国日を未定にして、後から予約できるもの)はとても手が出ない金額だった。散々迷った挙句、1ヵ月有効の帰路日も決まっている払い戻し不可のチケットを購入した。もし英国で見事就職できたら、その復路チケットは「捨てる」心づもりで。
その時の私の全財産は、母がくれたその100万円だけだった。ロンドンは生活費が高い。航空券購入後に残ったお金は3−4ヶ月で底をつくはず。もしそれでダメ(=英国で就職できなかった)だったら、その時は、本当に諦めて日本へ帰ろう、と腹をくくった。
そして、私は、前回の学生ビザが切れ、飛行機にも乗り遅れそうになった日から10日もしないうちに、また英国航空に乗り込んだのだった。
今度こそは絶対に、英国での職を取ると、心に決めて。
スーツケースの中には、実家の物置から探し出した、日本製の就職面接用のピカピカの靴を、密かに忍ばせて。。。
ヒースロー空港へ着き、入国審査官には、こう交渉した。
メアリーさんから送ってもらった、北ロンドン・ノースミドルセックス病院の人事課から発行された実務研修受け入れ証明書の FAX のコピーを見せながら、
「国営医療 (NHS) 病院の薬局で、無給研修訓練生としてのオファーをもらっています。海外医師に発行されているような『訓練ビザ』の薬剤師バージョンを発行していただきたいのですが」と。
これには、私なりの「作戦」があった。ロンドン大学の大学院は卒業してしまったため、もう学生ビザの発行は無理であろう。また、観光ビザで入国してしまうと、英国内務省の規定で、英国内での就職は不可能になることも知っていた。もちろん「英国で就職したいので入国したいです」と言えば、英国の雇用市場を脅かす者として、その場で国外退去になることは目に見えている。
で、その当時、日本では、旅行ガイドブック「地球の歩き方」シリーズの姉妹本として「地球の暮らし方」という本が刊行されていた。その「イギリス編」の1ページの片隅に、英国移民局が、海外医師向けに発行する研修ビザのことが、簡単に説明されていた。それを広義に捉え、薬剤師としても申請できないかな? と考えたのだ。
空港の入国審査官は「え? 海外薬剤師に発行されるビザなんて。。。聞いたことがないですね。それに、1ヶ月しか有効期間のない航空券しか持っていないじゃないですか。上司に相談しますので、ここで待っていて下さい」と言い残し、どこかへ消えて行った(写真下⬇︎)。
そして、長い、長い待ち時間の後、私の担当の審査官が戻ってきた。
そしてこう告げられたのだ。
「あなたのケースは、今までに前例がなく、入国管理局としてもどうしたら良いのか分かりません。という訳で、今回は、大学院卒業後の実務実習の一環ということにし、前回の学生ビザの延長ってことにしました。でも、最短期限の3ヶ月ということにしておきます」と。
(やったあーーーーーーーーーーーーーーー!❤️!❤️!❤️!❤️!❤️!❤️!❤️!)
私にとって願ってもない、最も良い条件の滞在許可の交付だった。このビザであれば、英国内の就職活動も心置きなくでき、就職できた暁のビザ切り替えも、全く問題がない。とにかくこれで、あと3ヶ月は、英国で就職活動ができる!!!
嬉しくて、嬉しくて、心の中で号泣していた。
でも、思わず油断しそうになったところで、この質問が出た。
「自身の経済力を証明できるものを持っていますか?」と。
出たー、この質問。。。! と内心、心臓をバクバクさせながらも、私は必死にポケットを探り、母がくれた100万円が私の銀行口座に振り込まれた際に、地方銀行のATM から出力されたレシート(写真上⬆︎)を見せたのだった。日本語で印字されているので、英国入国審査官にとっては、到底解読不可であろうもの(苦笑)。本来であれば、日本の銀行から正式発行される英訳残高証明を提示すべきなのであるが、その発行には高額な手数料も時間もかかる。だから、私はこう弁明したのだった。
「こちらの手紙にも書いてある通り、国営医療病院薬局での研修訓練は今月から受け入れ開始とあり、そのため、私、日本からとんぼ返りで戻ってきたんです! だから、日本の銀行から、財力証明書を発行依頼する時間すらありませんでした。でも、ここに示してある、この日本円額が、現在の所持金です」と。
すると、空港入国審査官は、にこやかに笑いながら、
「わかりました。(もう)いいですよ」と。
なんとそれ以上は、何も問われなかったのだ。
こうして、私は、文字通り「奇跡的に」、英国へ再入国できたのであった。
住んでいた学生シェアハウスへ戻ると、何もかも、元のままだった。
その晩は、無事英国へ戻ってこれた興奮と時差ボケから眠れず、その冴えた頭で、取り寄せていた求人募集要項の山から、日本人薬剤師の友人 M さんがファーマシーテクニシャンとして勤務し始めていた西ロンドンの聖チャールズ病院の応募用紙を探し出し、書き上げた。
そして、その願書こそが、翌月合格となり、その後、私が6年半務めることになるファーマシーテクニシャン職となったのだ。
だから、この2003年10月、英国に奇跡的に再入国できた日は、今振り返っても、私の今までの人生で、超絶最強運日だったと言えるのよ。
翌夕、例の日本人薬剤師の友人たちの溜まり場になっていた M さんの家へ出かけた。私が、今回どのようにして再入国できたかを話すと、皆、絶句した。そして長い沈黙のあと、英国の滞在ビザに関し、自身も色々と大変な思いをしていた A さんが、こう言い放った。
「麻衣子さん、それ、本当に『奇跡の物語』ですよ。。。入国審査官、よっぽど善い人やったんやわ」
全くその通りであった。まさに絶体絶命で、英国へは戻ってこれない可能性の方が高いことを、私が、誰よりも理解していた。
同時期に英国での就職活動をし、私を支えてくれた日本人薬剤師の3人の友人たちについてのエントリはこちら(⬇︎)からどうぞ
この我が身に起こった『奇跡』は、母がくれた「100万円」と、学生シェアハウスの管理人メアリーさんの「機転」、私自身の「一か八かの賭け」、そして、空港で担当してくれた入国審査官の「寛容」さが、全て結びついたものだった。
でも、その中で、最も感謝すべきなのは、母がくれた100万円。
今でも、どうしてあの時、母が助けてくれたのか、分からない。
ともあれ、私は、このお陰で、それまでのめちゃくちゃだった人生を立て直し、本当にやりたい仕事に就くことができたのだった。
今年夏、母が約20年ぶりに英国へ来た。
前回は、2000年春、ロンドン大学薬学校大学院へ合格したものの、留学に反対する母を説き伏せるため、連れてきた。
それから約20年の時を経て、私は、日本の薬剤師→英国のファーマシーテクニシャン→英国の臨床薬剤師になった。
英国王立薬学協会の出版社で働いたこともある。英国の薬科大学の非常勤講師もしている。日本の薬局協会会報誌に英国の薬局実務についての記事を定期的に寄稿させて頂いている。時々、日英両国の薬学教育や政策などの発展のお手伝いをしたり、日本で薬剤師をしていたら到底お目にかかれないような、日英の医療界で華やかにご活躍されている方々とお会いできることもある。
これだけ面白い薬剤師人生を送れているのは、あの時、母がくれた100万円で、英国に戻ってこれたから。
ところで母は、英語が全く話せない。今回、ロンドン・ヒースロー空港で見送りをした後、一人で出国セキュリティから搭乗ゲートへ行けるかどうかも危ぶまれるほどだった(写真下⬇︎)。
そんな「訳の分からない国」で暮らす娘を信じてくれた母には、今でも本当に、感謝の言葉がない。
母の愛は、偉大だね。
この後の話は、「英国でファーマシーテクニシャンの職を得た時の話」のシリーズ化として、これからも続きます。
では、また。