日英薬剤師日記

イギリスの国営医療(NHS)病院で働く、臨床薬剤師のあれこれ

英国でファーマシーテクニシャンの職を得た時の話(10)「持てる者と持たざる者」

 

このエントリは、シリーズ化で、前回の話はこちら(⬇︎)になっています。  

 

2003年10月末、ついに、西ロンドン・ノッティングヒル地区にある聖チャールズ病院から、面接試験の招待状が来た。

日本人薬剤師の友人の一人である M さんが数ヶ月前に合格し、勤務し始めていた薬局であった。もし合格すれば、M さんと同職種そして同僚になる「ローテーションファーマシーテクニシャン」の追加人員募集であった。

M さんをはじめとする、英国で私と同時期に就職活動をした3人の日本人薬剤師の友人たちについては、以前のエントリ(⬇︎)もどうぞ

 

その通知を受け取った直後、なんと英国では、ロイヤルメール(=旧郵政省下で英国の郵便事業をほぼ独占的に行なっていた半官企業。現在は、全民営化している)のストライキが起こった。そこで働く従業員たちの実に3分の2に相当する2万人が参加した大規模なものであった。英国中のどの街も郵便局が閉鎖され、郵便物の配達も当初は大幅な遅延、そしてストライキが長引くにつれて、全く行われなくなった。

その当時、英国国営医療サービス (NHS) の雇用・応募は、ほぼすべてが、手紙などの文面でのやりとりで行われていた。だから、このストライキにより、私の就職活動が(不可効力的に)中断されてしまったのだ。まさに、万事休す、であった。

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英国の郵便局窓口の様子。2003年秋/冬に大々的なストライキが起こり、私の就職活動にも影響が出た

でも、就職試験の度重なる不合格に、精神的に参っていた時期でもあったので、「ちょうどよかったのかも。ここでちょっと休息しつつ、この来るべき『聖チャールズ病院』の面接に賭けよう」と決めた。

友人の M さんが合格し、日本人でも労働許可書を問題なく手配できる病院であることは証明済みなのだから、私にも可能性があるはずだ、と信じて。

 

来る日も来る日も、面接の練習(だけ)に打ち込んだ。

M さんに、数ヶ月前の面接で聞かれた質問を思い出してもらい、より焦点を当てた傾向と対策を練った。

予想されるあらゆる質問への答えを、多角的な面から熟考し、1点でも高得点が取れるよう、貪欲に練習をした。

 

私は日本人で、英国の就業に必要な労働許可証を持っていない。

ファーマシーテクニシャンの免許も持っていない。

英国での職経験も、ほとんどない。

訛りのある英語を話す。

それだけで、相当不利な応募者だ。

たとえ面接試験で、英国人の候補者と「同点」になっても、面接官たちにとってみれば、「じゃあ、ちょっと考えてみるか」程度の者なのであろう。

面接官たちに「この志望者、英国内務省へ(労働許可書手配の)大金を払ってでも欲しい!」と思わせるには、面接試験で、数ある候補者の中から「圧倒的一位」になるしかない。

そのレベルにまで達するのには、語学の壁もあり、英国人のように、幼い時から自分の能力を他人に誇示する技術を磨いてこなかった私にとっては、他の応募者より、2倍、3倍、5倍、いや、100倍以上の努力が必要なのであった。

日本人が、英国での就職に当たって難関となる、労働許可書の手配についての詳細は、 以前のこちらのエントリ(⬇︎)もどうぞ


特に、この「聖チャールズ病院」面接試験の準備では、最後の仕上げとして「リハーサル」をしたかった。

やはり、信頼のおける誰か、できればネイティブに英語を話す人と臨場的な空気を作り、面接の受け答えの練習をするべきだ、と。


M さんのボーイフレンドである P 君(→オランダ系アイルランド人)に無理をお願いし、とある晩、M さんと P 君の家を訪れた。

M さんと P 君は、ちょうどその頃、それまで住んでいた、毎日がお祭りのようであったロンドン大学の学生シェアハウスを引き払い、2人だけの家を借り、暮らし始めたところだった。

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M さんと P 君が移り住んだ、西ロンドンの家の最寄駅だったところ

 

すでに英国で働き始めていた M さんは 、明らかに次のライフステージに移っていた。日本の薬業雑誌にて英国の薬局業務を紹介する連載も決まり、忙しくしていた。数ヶ月前の就職活動のことは、彼女にとってみれば、すでに忘却の彼方であった。よって、私のその頃の「毎日が背水の陣の悲壮感」は、想像し難いものであったに違いない。英国での就職面接試験も一発合格だったから、無理もなかった。

で、P 君と私で、面接のリハーサルを始めたものの、その日は、P 君も明らかに、心ここにあらず、という感じであった。

恐らく、その晩の私は、忙しくも仲睦まじいワーキングカップルの貴重な団欒時間に踏み入る、無職の「おじゃま虫」だったのだろう。

 

そして、P 君がいくつか質問をし、私が受け答えをしている時であった。

突然、私が喋るのを遮った。そして、苦笑しながら、

「今まで、いくつ就職面接試験を受けたの?」と聞いてきた。

「10ぐらい。。。」と答えると、

「10!? それだけ受けて、合格しないなんて(君には)才能がないんだよ。もう無理だと思うよ。ロンドンでの就職は、諦めたら? ボクの M ちゃんは、一発合格だったからね。M ちゃんは、すーっごいね〜💖」

M さんも、当時、P 君と幸せそのものだったのであろう。あははは、と屈託なく笑いながら、

「うん。私、面接試験、得意よ。今まで、一度も落ちたことない」と。

 

ひどく、ひどく、傷ついた。

 

P 君は、英国の大学を首席で卒業後、日本のとある大学から全額奨学金を受け、日本で博士号を取得した。そして(明らかに)交渉上手な人であったから、当時、ロンドン大学のポスドクのポジションではあり得ないような額の給与を得ていた。

M さんは、P 君と一緒になるために英国へ来たけれど、ロンドン大学薬学校の大学院のコースは、日本で働いていたドラッグストアの社長さんからの篤志による出資で行なっていた。

だから、2人は、傍目から見ても、優雅に暮らしていた。美男美女のお似合いのカップルで、特に P 君は、M さんに「ぞっこん」であった。大学院での学業や就職、そして日々の生活において、M さんを、物質的にも精神的にも、フルサポートしていた。

大概の外国人留学生にとって、経済的に困らないこと、そして、大学院のコースワークや、求人の応募などの際に、的確な添削をしてくれたり、親身にアドバイスをくれる人がいるというのは、命綱に匹敵するほどの強みなのだ。そして、それらは、しばし、その人本来の能力や才能を補ったり、人生を左右するほどの貴重な機会を(より容易に)得る手段となり得る。

 

経済力、手取り足取りサポートしてくれるボーイフレント 、そこから生まれる心の余裕。。。。

その頃の私は、これらのどれ一つとして、持っていなかった。

常に飢え、物乞いをするように、ありとあらゆる人の助けを、恥も外聞もなく求めていた。あまりにも絶対絶命で必死だったから、周りのことが見えず、とても失礼なことをしたり、恥ずかしい思いをしたことも、たくさんあった。

 

持てる者と、持たざる者の、歴然とした差が、そこにあった。

 

そして、そんな中、

自分の身近な「持てる者」から面と向かって「君には才能がないよ。諦めたら?」と言われたのが、一番辛かった。

 

悔しくて、ぽろぽろ泣きながら自宅へ戻る途中、

私には、才能はおろか、人並みの能力すらないかもしれない。でも「目標に向かって最大限に努力をする姿勢」と「諦めない信念」だけは、持っているよ

これらをもってすれば、才能のない人にだって、何かをなし得ることがあるということを証明するためにも、次の面接では、絶対に受かってみせる

と誓った。

 

この世では、誰もが恵まれた状況で、きらびやかに成功できる訳ではない。むしろ、その逆で、その一番になった者の影に隠れた人の数の方が、絶対的に多い。成功者は華々しく脚光を浴びるため、敗者はそのより暗い影に隠れて、見えていないだけ。

だから、私のように、常に劣等生であり、敗者であり続けた「持たざる者」が、周りの人に「才能ないよ」「できっこないよ」と言われた目標を、努力と情熱を持って成し遂げることができれば、同じように夢に向かっているけれども逆境にある多くの人たちへ、一つのメッセージを投げかけることができるのではないか、と。

 

しかし、であった。

 

私は、この晩の帰宅途中、風邪を引いたのだった。

冬に近づいてきており、頬を伝う涙が凍ってしまうのではないかと思えるほど、寒い夜だったからね。

 

最初は寒気から始まり、突然、滝のような鼻水と間欠的な咳。

次第に、咳が止まらず、発熱しだした。

 

ここ一番の勝負である、大切な就職面接試験は、翌々日に予定されていた。

  

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私が、その晩の帰宅途中泣きはらした、西ロンドンの駅のプラットフォーム。ちなみに、M さんと P 君は、それからわずか1年後、それぞれ別々の道を歩むことになった。現在、M さんは日本へ帰国し、医療経済評価の第一人者になっている。P 君は、英国北部の大学教授である。そして「ロンドンでの就職は無理」と言われた私だけが、ずっとここで暮らし、臨床薬剤師をしている。人生って、本当に、分からない

 

この後の話は、「英国でファーマシーテクニシャンの職を得た時の話」のシリーズ化として、これからも続きます。

 

では、また。