今日は、東日本大震災の日から10年ですね。
日本人であれば、恐らく誰もが、あの日、どこで、何をしていたのか、覚えていることでしょう。
今日のエントリでは、その当時の私の記憶を辿ってみたいと思います。
その年 (2010/2011年)、私は英国の薬剤師免許を取得するため、海外薬剤師免許変換コース (Overseas Pharmacists' Assessment Programme, 通称 OSPAP) を履修していました。
40歳近くになって再び学生となったため、それまでのファーマシーテクニシャンの職も辞し、学業に専念していた年でした。
日本の薬剤師免許を英国の資格に変換するコース課程、通称 'OSPAP' の詳細は、こちらのエントリ(⬇︎)の後半部分をどうぞ。
その日は、在住しているロンドンからはるばる、大学が所在する英国南部のブライトンへ通学する日でした。
早朝の列車に乗り仮眠していたところを、パートナーからのテキストメッセージで起こされました。
「日本の東北地方を中心にマグニチュード 8.8 という大規模な地震が起きたというニュースがラジオで流れている。今すぐ、実家へ連絡をした方がいい」と。
携帯電話の画面の内容に、目を疑いました。私の両親はこの20年ほど、仙台に在住しています。
その時、私の乗った列車は、ロンドンとブライトンの中間地点にあるロンドン・ガトウィック空港駅をちょうど発車したところでした。
空港ターミナルに停留している無数の飛行機を、通過する列車の窓越しに見た時、咄嗟に;
「このどれかに乗って、今すぐ日本へ行けないかな?!」
という衝動に駆られました。ちょっと、ちょっと、車掌さん! お願いだから、ここで降ろしてーーーーっ!! 私、これから、このどれかの便に乗るから!!! と。冷静に考えてみれば、その時、パスポートを持っていなかったのですが。。。。
それほど、心を取り乱していたのです。
ロンドン・ガトウィックは、主にヨーロッパ各地を中継点とする国際空港です。この空港内の薬局を訪れた時のことは、こちら(⬇︎)のエントリもどうぞ
大学へ着いて、携帯から実家に電話をすると「ツーーーー」という音のみ。電信は不通になっているのだということが分かりました。
例えようのない不安が募りました。
その日は、公衆衛生の授業で、グループワークをする日でした。
英国の薬剤師には「公衆衛生を国民へ向けて積極的に啓蒙する」という職務があります。その実習として「公衆衛生に関する教育ビデオ」を小グループで作成し、近隣の小学校に出向き授業をするための準備をするという日でした。
正直、日本が国難とも言うべき状態になっている時に、何でこんな(くだらん)ビデオなんて作らなければならないんだろう、と思いました。
うわの空のなか、一日の作業を終え、帰り際、学生ホールの廊下に設置されていたテレビの前をたまたま通り過ぎた時のこと。
英国の国営放送 BBC が、震災の様子の映像を放映し始めていました。
それを初めて見た時の衝撃は、今でも忘れることができません。
子供の頃、宮城県沖地震 (1978年) で被災した体験を持つ私でも、これは間違いなく未曾有の震災だ、と瞬時に理解しました。
呆気に取られて放心状態でいると、通りがかった一人のアフリカ系の学生が声をかけてきました。
「日本人でしょ? 心配だよね。。。」と。
そして何の躊躇もなく「一緒に、祈りましょう」と申し出てくれました。
見も知らぬ人の愛が、身に沁みました。
音信不通のため、両親の安否を知るすべがなく、その週末を過ごしました。
日英両国のテレビの映像や、ネットにアップされた震災の様子を伝える記事やビデオを、四六時中、釘付けで見続けました。
そして、それらを通し;
被災され避難所にいる方々が整然と列をなし配給を待つ姿
物資の限られたスーパーマーケットで買い物をする人々が買い占めをせず、次の人に譲り合う思いやり
震災後の混乱や救助に冷静かつロジカルに働く人々
福島の原発処理に不眠不休で従事した方々の犠牲
倒壊しなかった高層ビルが示す建築技術の高さ
店舗荒らしや ATM などの破壊が全くない
といったことが、世界中で賞賛されていました。
日本人であることを、これほど誇りに思ったことはありません。
「このレベルの災害が英国で起こったとしたら、今ごろ間違いなく、略奪や暴動といった2次被害が出ているよ」と一緒に TV を観ていたパートナーが、ポツリと言いました。
全く同感でした。
日本の両親とは、一週間以上経って、やっと連絡が取れました。
いとこの一人が、公共交通網のない中、自転車ではるばる実家を訪ねて来てくれ、無事を確認してくれたとのこと。
そして震災後、避難所で暮らすほどではなかったものの、巷では最低限の食料や水も不足していた時期に、両親は、地元に所在する英国救世軍からおにぎりを、近所のイスラム教徒たちからはカレーの炊き出しを頂いたと聞きました。
こういった災害の時に、人は、人種も宗教も信条も争いも超えた、無条件の愛を感じることができますね。
でもその時、何もできなかった私は、これほどまでに無力を感じたことはありませんでした。
実はその当時、私は「英国で薬剤師になるために大学院生に戻った」ということを周りの多くの人に公(おおやけ)にしていませんでした。
折しもリーマン・ブラザーズ破綻の煽りを受け不景気になっていた英国で、得られるはずだった融資も受けられなくなり、十分な資金を持たぬまま(見切り発車で)英国薬剤師への免許変換を開始していた矢先のことでした。
そして折悪く、この震災の直前に、中間学科試験の科目の一つで単位を落としてしまったことを知らされました。卒業できないかもという、まさに精神的にどん底の時期に、この震災が起こったのです。
私が在籍した年のブライトン大学には、少数ではあったものの、日本人学生(→主に学部生)が何人かいました。その方々が、震災後すぐ、大学内で募金活動を始めていました。でも私はその時、経済的にも大窮地で、その寄付にも事欠くほど。
(私、何のために、英国で薬剤師になろうとしているんだろう。。。?)と、自責の念に駆られました。
でも、震災の甚大な被害が世界中へ報道されるにつれ、そして、両親が被災したことを知った大学のコースの先生たちは、私のことをことのほか心配して下さり、
「できることがあったら、遠慮なく言ってね」と仰って下さいました。
例えば、心労が大きいようであれば、課題の提出の締め切りの延期なども考慮するから、と。
そして(かなり時間がかかりましたが)とある半官職業訓練教育機構から、この海外薬剤師免許変換コース (OSPAP) の授業料分の奨学金が受け取れることになりました。
震災発生を前後して、ブライトン大学では、海外薬剤師免許変換コース (OSPAP) 学生と学部生を対象にした「医薬品開発・製造」というモジュールが始まりました。
この科目はとてもユニークで、講義は全員、製薬会社に以前もしくは現役で勤務されている方々が担当されていました。
で、毎回、世界中の異なる製薬会社からいらした講師たちは、
「日本の製薬会社は、ホントに凄い」
といったことを口を揃えたように仰るのでした。その聴衆の中に日本人学生(=私)がいるのを知ってか知らぬか。。。。
イノベティブであること
完璧主義であること
外装の箱の表示の小さな一文字が誤植だっただけで、全製品を回収した
Kai-Zen があること(→『改善』という言葉は、特定の技術分野においては、海外でもそのまま日本語で通用しているのだということを、私はこの講義シリーズの中で、初めて知りました)
などなど。
日本人の私からしてみれば「え? そんなの当たり前」といったことにも、一つ一つ感嘆しておられました。
この科目の最終試験には、日本人である赤尾洋二・水野滋両博士が提唱した「『品質機能展開 (Quality Function Deployment, 通称 QFD) 』を、実際の医薬品開発に結びつけて論ぜよ」という質問が出題されました。
日本人学生にとって明らかに有利な試験問題で、私はこの科目(→だけでしたが)で、その年の全学生の中での最高得点を取ることができたのでした。
それは、数ヶ月前に落としてしまった科目単位を補って余りある挽回でした。
そんなさまざまな助けもあり、私は、この海外薬剤師免許変換コース (OSPAP) 課程を修了することができたのです。
そしてこの「医薬品開発・製造」の講義の中で、私は、一つの信念を得ました。
日本の製薬会社は、確かに、世界中から絶賛されている。
でも、臨床薬剤師として「凄い」っていう現役の日本人、(少なくとも私の耳には)聞いたことがないな。
私は、それを目指すべきだ、と。
今、私が、英国で臨床薬剤師として、時に狂信的とも言える度合いで働いているのは、この震災の時に何もできなかった負い目や償いからきているのかも知れません。
去年の3月、私は日本での里帰りを計画しており、その際に三陸地方を初めて訪れる予定でした。でも、新型コロナウイルス (COVID-19) のパンデミックで中止となってしまい。。。
今月末に予定している有給休暇の時こそは是非、と再計画していたものの、まだ一般人の海外渡航の規制が緩和されていない現時点での英国では、またもや延期せざるを得ませんでした。
でも毎年、東日本大震災の日のことは、忘れずに覚えています。
犠牲者の方々への祈りと、あの時、何もできなかった私と、辛く大変だった、日→英国薬剤師への免許変換コース課程の年の記憶と共に。