日英薬剤師日記

イギリスの国営医療(NHS)病院で働く、臨床薬剤師のあれこれ

見知らぬ街の病院を訪れてみた。英国ケント州メドウェイ病院

 

今回のエントリは、前回(リンク⬇︎)からの続きとなっています。 

 

翌日、ホテルをチェックアウトした後は、こちら(写真下⬇︎)の国営医療 (NHS) 病院を訪れてみました。

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ケント州メドウェイマリタイム国営医療 (NHS) 病院。土地柄、こちらは以前、海軍病院だったとのことで、病院玄関には、年季の入った船の錨がオブジェとして飾られています

ちなみに、こちらの病院と似たような歴史を持つ場所として、私が以前、ロンドン南東部グリニッジに所在する「元英国陸軍病院」を訪れた時の記録は、こちら(⬇︎)からどうぞ

 

今回のエントリ、「見知らぬ街の〜」と題しているけど、実は私、こちらの病院に20年以上前、一度訪れているの。

今回は、その時効とも言える、私の「失敗談」を公開。

 

このブログに何度か書いていることだけど、私、2000年秋に英国へ移り住んだ最初の目的は、ロンドン大学薬学校大学院の臨床薬学修士コース(リンク⬇︎)に入学したためだった。

大学院での授業と、ロンドン市内での国営 (NHS) 病院での実習が半々の実践的なコースだったのだけど、大学院ではクラスをグループに分け、少人数で学習するという機会も多かった。

私が卒業したロンドン大学薬学校のコースの詳細は、過去のこちらのエントリ(⬇︎)もどうぞ

 

それで、確か消化器系分野でのモジュールで、本国の英国人薬剤師学生の誰かとペアになって「共同症例発表」をするという課題があったのね。

英語をろくに喋れない日本人の私と喜んでペアになってくれそうな親切な人は、現れそうになかった(ように思えた)。

でも、一人の年配の女性が、名乗り出てくれたの。20-30代の若手薬剤師が多い中、その方はその年のクラスの中でも飛び抜けて最年長だった。当時、50代半ばぐらいだったんじゃないかな。

で、その方とペアになる条件は「プレゼンの準備をする際には、私が住んでいる『ケント州の oo 街』に来てもらえないかしら?」とのことだった。

とんと聞き知らない場所であったが、「英国へ来てから、ロンドンの外へ出たことなかったし、いい機会だな」と、そのありがたい申し出を受けることにした。

 

でもね、その共同プレゼンの準備をする約束をしていた、初冬のとある週末の日、私、あり得ない失敗をしてしまったの。

住んでいたロンドン大学の学生寮からはるばる、彼女が「最寄駅は『チャタム (Chatham) 』というところよ」と教えられたその駅へ 、約束していた時間ちょっと前に無事到着。早速、駅の公衆電話(→その当時、私は、携帯電話を持っていませんでした)から、彼女の自宅へ連絡しようとしたところで。。。。

なんと、電話番号を書いてもらった紙きれを持ってこなかったことに気づいた。

何たる大失態!!!!!(号泣)

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英国へ来たばかりの頃、大失敗をしたケント州「チャタム (Chatham) 駅」。今回の小旅行は、20年以上前に右往左往したこの場所から始まりました。前回、ここに降り立った日は、英国の冬の典型的な灰色の曇り空でしたが、今回は、初夏の美しい晴天というコントラスト。そして例の公衆電話は撤去されており、時代の流れを感じました。

ちなみに、私が渡英後、最初に住んだ「ロンドン大学の学生寮」にご興味のある方は、以前のこちらのエントリ(⬇︎)もどうぞ

 英国に移り住み、数年後に就職できるまで、私、携帯電話を持つことができませんでした。そんな事情は、こちらのエントリ(⬇︎)で、少し触れています。

 

なすすべがなく、その彼女の自宅電話番号が書かれた紙を取りに(だけに)ロンドンへ戻り、出直すしかなかった。それで結局、なんと4ー5時間を無駄にしてしまい、再びこの駅に舞い戻り、その方へ連絡できた頃には、すでに日が暮れようとしていたの。

でもね、生きた心地がしない状態で、この駅の前で一人ポツリと待っていると、彼女は「心配していたわー!」と、笑顔で迎えに来て下さった。何のお咎めもなく。

そして自身の運転にて、ご自分の勤務地の病院(写真上⬆︎)に連れて行って下さった。他のスタッフが誰も居ない薬局の内部を案内して下さった後、やっとそこでプレゼンの準備を始めることになったの。

3−4時間かけ集中的に準備をし、何とか形になりそうだという時点で終了。

そして彼女は、再び、自分の車にて、夜の 10 時頃、私をこちらの駅まで送って下さったのよ。

家族のいた彼女は、その日、私の失態から、週末の団欒の時間であるはずだった夕食を逃したはず。

それにも関わらず、日本からやってきたばかりで、右も左も分からなかった私への『神対応』に、ロンドンへの復路の電車は、とても心が温まる思いになったのだった。

この方のファーストネームと姿形は、今でも覚えている。さすがに定年を迎えられ、もうこの病院には勤務されておられないであろうし、私のことも(恐らく)忘れているであろう。

でも私にとっては、渡英したばかりの頃、窮地の際に助けの手を差し伸べて下さった方として、20年以上経った今なお、感謝の念がある。

 

駅まで送ってもらう途中の車中での会話で「世界中を転々としてきた」人であったことを知った。キプロス、マルタ島、そしてなんと、日本の横須賀でも短期間ではあったが暮らしたことがあったと。この街の土地柄、ご主人さんの仕事は、海軍か船舶業であったのであろう。

そして、最近ようやく子育てが終わったので、50歳半ばにして、近所の病院薬剤師の職に応募し、目下『新人』としてやっている、と。 

 

私、英国の大学院に入学する際「30歳近くになって、定職も捨て、これ以上、何を勉強する必要があるの?」と反対された。社会人学生というものが珍しく、実務薬剤師の海外留学の前例もほとんどなかった当時の日本の風潮から来る意見であったのであろうが、一旦社会に出たら「学ぶ」ということは贅沢なことで、周りの者に対し後ろめたい気持ちになるのだということは、否めなかった。

でも、英国へやってきて、特にこの方との出会いを通して、英国の薬剤師は年齢に関係なく学生に戻る(れる)のだということを目の当たりにした。しかも、英国の薬剤師の大学院による卒後教育は、職場での昇格システムに組み込まれており、その殆どがパートタイムのコースで、仕事と学業を両立できる形態で運営されているのであった。

しかも聞けば、彼女は、勤務先の病院薬局から奨学金を受け(よって、自身では一銭も払うことなく)、臨床薬剤師としての系統だった卒後教育課程を履修しているのであった。当時、英国では、薬剤師不足が深刻で、人材確保の一策として「雇用した薬剤師には、職場が奨学金を出し大学院へ行かせ、長期的に育成する」ということが盛んに行われていた時代でもあった。その頃、前回のエントリで紹介した「メドウェイ薬学校」はまだ開校されていなかったので、それでこの方は、50代半ばにして学生として、はるばるロンドン中心地の薬科大学へ通い、自身の職能を向上させていたのであった。

あの時の彼女の年齢に、だんだんと近づきつつある私だけど、こちらの病院を今回、ほぼ20年ぶりに再訪し、私も、これから自身が目指す「処方薬剤師免許」の取得、年齢に関係なく頑張るぞー、と決意を新たにした次第。

 

さて、こちらの病院ですが。。。

一部は、近代化(写真下⬇︎)されていましたが、20年前と何ら変わっていない様子も伺え、興味深かったです。

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英国国営医療 (NHS) 病院の救急車乗り入れ口の典型的な光景

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この時勢を反映し、病院敷地内の片隅には、新型コロナウイルス (COVID-19) 検査室も仮設されていました。

一方で。。。

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海軍病院時代からの、築100年以上の「Medical Mess (=時間外医師待機室)」や

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「Sisters (=看護師長室。現在は、職員寮として使用されている様子) 」も現存していました

英国では、看護師長や、勤務シフト中の看護師総責任者を「シスター」と呼びます。以前のこちらのエントリ(⬇︎)もどうぞ

 

ところで、こちらの「メドウェイ病院」では、以前、一人の日本人が研修医をしていたことを、私、こちらのウェブ記事(リンク⬇︎)で、思いがけず知りました。

著者の林大地先生は、私のロンドン大学薬学校大学院時代、配属先であった聖トーマス病院で実習していたのと同時期に、同病院の附属医学校で学ばれておられた方です。そしてご卒業後は、私が今回(と20年前に)訪れたこちらのメドウェイ病院にて、研修医課程を修了されたとのことです。その研修医時代のご経験からの、英国の医療についての非常に示唆に富むエピソードが、こちらに記述されています。

私のロンドン大学薬学校時代の実習病院であった聖トーマス病院での思い出は、以前のこちらのエントリ(⬇︎)もどうぞ

これまたほぼ20年前の週末のある日、私が、聖トーマス病院の病棟で勉強をしていると、とある大御所の医師の先生に突然話しかけられました。「君、日本人? ここの医学校にも現在、日本人の学生が一人いるんだよ。日本人は皆、本当に勤勉だね」と。

その時はピンとこなかったのですが、後年、こちらの日経メディカルの連載を偶然目にし、それで先生の以下(リンク下⬇︎)の著書も拝読しました。そこで、ああ、あの時伺った「真面目な日本人医学生」は、林先生のことだったのだなと、点と点が繋がりました。

当時、病院内の廊下とかで互いにすれ違っていたりしても(全く)おかしくなかった状況でしたが、今日に到るまで、実際にお会いしたことはありません。現在は、米国でご活躍されているとのことですが、先生が英国で辿った足跡が、私の軌跡とも(少しだけ)交差しており、僭越ながらとても親近感を持っております。

こちらの本(リンク下⬇︎)は、今日まで脈々と受け継がれている英国の医学教育の実際が、日本語で解説されている貴重な文献として、折あるごとに、何度も読み返しています。

 世界は広くて、狭いですね。 

 

では、また。