本来であれば、先月出かけた「薬局ショー」のレポートの続き(下)を書くつもりであったのだけど。。。
今回は、特別企画でこちらを。
私は、英国を代表するロックバンド「クイーン」の大ファン。
彼らの曲を、毎日どれか一度は聞かないと、1日が終わった気にならないほど。
そして今日は、私が世界一の歌声と信じて疑わない、フレディ・マーキュリーの 30 年目の命日。
ということで、彼が亡くなった当時の英国の医療やエイズ治療について書いてみたい。
実は私、このエントリを書くにあたり、彼について書かれたさまざまな伝記を再読したり、ドキュメンタリーをたくさん観た。よほどのファンじゃないと知らないんじゃないかな? と思えるようなことについても調べ、それに関連するロンドン市内のゆかりの場所へも訪れてみた。
よって、今回のエントリの副題は;
「あなたの知らない『フレディ・マーキュリーと医療』に関する7つのこと」。
ちなみに私、3年前にもフレディ・マーキュリーとエイズのことについて書いています。その時のエントリはこちら(⬇︎)から。
1)お抱えの家庭医(かかりつけ医)がいた
こちら、フレディ・マーキュリーが登録していた、英国国営医療サービス(NHS) 管轄の家庭医院(写真下⬇︎。現在は、外観は当時のまま内部を改装し、個人邸宅となっています)。当時からロンドン市内の中で、最も古い家庭医院の一つとして知られていた場所だったそう。超高級住宅街メイフェア地区のひっそりとした小さな裏路地にあった。
ちなみに英国の家庭医院は、普通の民家を改造して運営しているようなところもあり、一見すると「ここ、本当に医療機関?」と困惑するような場所がたくさんある。そんな一例は、私の過去のこちらのエントリ(⬇︎)もどうぞ。
英国の国営医療サービス (NHS) は、原則ほぼ無料。でもそのサービスを利用するには「家庭医 (=かかりつけ医。通称 GP、General Practioner の略) 」に登録する必要がある。
まず自分が登録している家庭医(かかりつけ医)に診てもらい、そこで必要であれば最寄りの病院の専門医へと紹介されるシステムとなっています。その概要については、以前のこちらのエントリ(⬇︎)もどうぞ
フレディ・マーキュリーほどの億万長者かつ著名人であれば、医師に診てもらいたい場合は全額自己負担の「プライベート医療」を利用していただろうと容易に察することができるのだけど(→事実、エイズの治療は全て全額自費で行っていた。後述⬇︎)、クイーンのコンサートツアーには、巨額のお金が動いていた。万が一、メンバーの体調不良などで中止となった場合は多大な損害となるため、プロモーターはツアーの契約を結ぶ際にいつも、特にフレディからの「健康証明書」の提出を要求したそう。
で、その発行には、英国の国営医療サービス (NHS) 医師からのものが必要だった。だから彼は、こちらの家庭医を定期的に訪れていたのだった。事実、HIV 陽性判明後は「健康証明書」を提出することができなくなり、クイーンはその後2度とツアーへ行くことはなかった。
1986年のフレディ・マーキュリー最後の「スタジアムライブ」の臨場感は、こちら(⬇︎)から
登録かかりつけ医であった先生とは個人的な友人ともなり、クイーンのワールドツアーにも帯同したり、亡くなる直前は、彼の往診も行なっていた。
亡くなった日は週末(日曜日)であったため、 この先生は、明け方に痙攣(恐らく、エイズ脳症)を起こしたフレディに一日中付き添っていたそう。でも皮肉なことに、夕方に小康状態を保っていると判断し立ち去った直後、突然亡くなってしまった。家の者が慌てて、マスコミが包囲する自宅脇の駐車所まで追いかけ、先生を連れ戻し、そこで死亡宣告が行われたのは、ファンの間ではよく知られた有名なエピソード。
2)エイズの治療は、ほぼ全て全額自己負担にて、仮名(本名)で行っていた。
1980年代は未知の病であったエイズ。
当初は「ゲイ特有の性病」と言われていたことから、その偏見を恐れ、治療は全て(英国国営医療サービスを利用せず)全額自己負担のプライベートケアで行っていた。身元を隠すため、治療を受ける際は元々の本名(ファルーク・バルサラ Farrokh Bulsara)を使用していた。
カポジ肉腫の治療のため放射線療法を受けていた際は、人目を避けるため、朝の5−6時台に予約し、病院内に自分以外の外来患者さんがいない状態で行っていたという逸話がある。
当時の最先端の治療を色々と試す中、出会った専門医の一人は若干20代後半の、オーストラリアから英国へ来たばかりであった「グレアム・モイル (Dr Graeme Moyle) 」という名の医師だった。
で驚くべきことに、30年経った今なお、モイル医師は英国でのHIV/AIDS 治療の第一人者として活躍している。現職は、英国国営医療サービス (NHS) でも国内随一の性病クリニック(写真下⬇︎)での HIV 研究部門のディレクターだ。
この他にも治療に当たっていた医師は5人ほどいたそう。
ステージ上のパフォーマンスからは想像がつかないが、私生活でのフレディ・マーキュリーは、物静かで義理堅い人として知られていた。自身の最後の誕生日 (1991年9月) には、世話になっていた医師全員を自宅へ招き、お茶会を催したというエピソードがある。すでにこの時期には本人も「年を越せないであろう」と自覚していたらしく、それは、自分の医師団へのお礼とお別れ会であったとも言われている。
3)当時最新の HIV 薬であった AZT (アジトチミジン)を服用していた。
世界初の HIV 薬と言えば、日本人医師・満屋裕明博士が 1987 年に開発した AZT 。フレディ・マーキュリーが在命中の治療薬と言えばこれしかなく、彼も服用していた。
混合剤が市場に出始めたのが、彼が亡くなった前後の時期。バンドメンバーであったブライアン・メイを始め多くの者たちが、フレディは、感染・発症がもう少し遅かったならば「カクテル」と呼ばれるその混合剤を入手でき、今日まで生きていたのではないかと語っている。事実、彼の生涯最後のパートナーであった男性は、後に HIV 陽性と判明したものの、混合剤を服用出来生き長らえた。
4)モルヒネにアレルギー(高い感受性)があった。
モルヒネを服用すると、ひどい吐き気を起こしていたそう。私と一緒(笑。過去のこちらのエントリをどうそ⬇︎)。
よって闘病中、主に服用していた鎮痛剤はジヒドロコデイン(写真下⬇︎)だったという。
ちなみにジヒロドコデインは、英語では「ダイハイドロコデイン」と発音しています。 薬剤の日・米・英間の発音の違いについては、過去のこちら(⬇︎)のエントリでも、数例を紹介しています。
亡くなる数時間前、自宅へ往診に来ていたかかりつけ医が(うっかり)モルヒネの注射を投与してしまい、周りの者が大慌てしたと回顧している。でも、フレディ自身はすでに意識が混濁し、吐き気を訴えなかった(る力すらなかった)と。
そんな中でも最後までオムツや簡易トイレの使用を拒み、亡くなる直前に「トイレに行きたい」と言ったが、間に合わなかった。パートナーと個人秘書が2人がかりで、シーツや衣類を交換している最中に「。。。?! 息をしていない!! 逝ってしまったんだ!!!」と気づいたというのが最期だったと語り継がれている。
まさしく、モルヒネの作用による意識消失の中、息を引きとったのでしょう。
5)ヒックマンライン(中心静脈カテーテル)を体内に挿入し、在宅治療を行っていた。
その挿入のため、プライベート(全額自費)病院(写真下⬇︎)へ一晩入院したとの記録が残っている。それ以外には、どこを探しても、入院による治療を受けたという事実が探せなかった。それが本当であれば、全てのエイズ治療を外来と在宅で行った、当時の医療事情としては稀有な人だったと言える。
ガンシクロビルを使用していたとの記述も見つけた。親しい友人であったエルトン・ジョンの自伝(リンク下⬇︎)によれば、最後に見舞った時には、目がほぼ見えなくなっていたと。HIVの免疫不全由来のサイトメガロウィルスにやられて失明したのであろう。
この他にも、ヒックマンラインを通して抗生物質の投与なども行っていたものと察しているが、それらの投与と衛生管理は、彼のパートナーや個人秘書が行っていたとのこと。そして一度たりとも、カテーテル経路の感染症を起こさなかったらしい。これ、素人の看護として、卓越した腕前だったと見ている。
6)最後は、緩和ケアを選択した。
亡くなる2週間ほど前 (1991 年11 月上旬) から「これ以上、積極的な治療を望まない」と緩和ケアへと移行した。
よく知られている通り、亡くなる前日まで自らの病名を世間に公表しなかった。でも、憶測が憶測を呼び、彼の西ロンドンの自宅は、マスコミに四六時中包囲されていた。
人々の好奇の目に晒され、一歩も外出できず、生きるしかばねのように暮らす中「もうたくさんだ」と緩和ケアに踏み切ったそう。彼に仕えていた人たちには、その選択を支持するのに葛藤があったとも伝えられている。
上述の AZT を始めとする全ての治療薬を止め、鎮痛剤だけを服用し続けた。
英国では、突然死でもしない限り、非常に早い段階で「どう死んでいきたいか」という意思決定が本人や家族へ問われます。そして大多数の者が、最期は緩和ケアを希望します。そんな事情は、私の以前のこちらのエントリ(⬇︎)もどうぞ。
7)最期を看取った個人秘書は、後に英国国営医療 (NHS) サービス病院の看護助手となった。
フレディ・マーキュリーの闘病を支え、最期を看取ったのは、彼の自宅に同居していた3人の男性たちであった。
1人目は元パートナー。関係を解消した後は、専属シェフとして仕えた人で、フレディの死後から数ヶ月後、後を追うようにエイズにて死去。
2人目は生涯最後のパートナーと言われた人。上述の通り、HIV 陽性と判明したものの、現代の治療の主流となった「混合剤」により発症せず生き延びた。後年、エイズとは関係のない肺癌により死去。
最後のパートナーだった「ジム・ハットン」さんの伝記はこちら(リンク下⬇︎)から
そして、3人目の個人秘書だった人は、フレディの死後、英国国営医療サービス (NHS) 病院の看護助手となった。
個人秘書であった「ピーター・フリーストーン」さんの伝記は、こちら(リンク下⬇︎)
英国では年齢に関係なく、それまでのキャリアを変更し、医療従事者になる人が多い。それまでの経験が考慮され、働きながら必要な資格を徐々に習得できるようサポートしてくれるなど、フレキシブルな対応がなされている。
そんな実例は、以前、こちらのエントリ(⬇︎)でも紹介しています。
彼も「フレディ・マーキュリーを看取った」という体験から、看護職に興味を持ったそう。これぞレガシーである。
私がこの病院で実習していた頃の思い出にご興味のある方は、こちらのエントリ(⬇︎)もどうぞ
では、また。