日英薬剤師日記

イギリスの国営医療(NHS)病院で働く、臨床薬剤師のあれこれ

スティーブン先生のこと(1)出会いと別れはいつだって突然に

これまでの人生で、出会いと別れを、これほどまでに幾度も繰り返した人(写真下⬇︎)はいない。

その人の名は「スティーブン先生」という。

 

スティーブン先生が日頃、医師として働く姿を如実に捉えた写真。ひょうきんで温かい人柄ながらも、仕事に向き合う時は、こんな真剣そのものの表情を見せていた

 

アイルランド人研修医と日本人臨床薬剤師として、勤務先のロンドン・サリー州境界の一般病院の急性期内科病棟で出会った。

最初は、彼がよく質問をしてき、私が教えることの方が多かった。

でも、英国で働く非英国人同士だったからなのか、似た勤労意識を持っているからなのか、性格的に波長が合うというのか、一緒に働いていると、いつも小気味よくて。

彼の8ヶ月にわたる急性期内科ローテーションが終わった後も、他の病棟(呼吸器系、消化器系、内分泌系、高齢者病棟など)でちょくちょく一緒に働くことがあった。でもそれらはいずれも単発的(→私が、同僚の長期の休暇期間や病欠の際に、先生がローテーション中の病棟で一時的に働くという形)だったので、またすぐ離れ離れになった。そんなことを何度も繰り返しているうちに、再会する度に親しく近況報告をし、互いの成長を確かめ合う間柄になっていった。

でも、ある時からぷっつりと、消息不明になった。研修医というのは、来ては去っていく人たちなので、次第に音信不通になっていくのは、ごく普通のことなのだけど。

来ては去っていく研修医の先生たちとの出会いと別れについては、以前、こちらのエントリ(⬇︎)でも書いています。

しかし、スティーブン先生は、最近、また私の前に、突然、姿を現した。そしてここ数ヶ月は、再び共に「毎日ガチ」で働いていた。

いつの間にか医師として大きな成長を遂げ、抜擢されて昇格し、今や立場が逆転し、私の方が、彼の持つ医学知識や技術、そして何よりその美しい人となりを、全部学んで吸収したいと切望するようになり、

これまで以上に息の合う医局長補佐医師とプリンシパル薬剤師として、日々、事あるごとに、互いの仕事ぶりを讃えあう間柄にもなっていって。

 

でも、先生は先週、また私の元から去っていった。

オーストラリアで医師として働くために。

 

またいつの日か、再び会うかも知れないけれど、

今回の別れが(もし)永久のものとなってしまっても、この先生と一緒に働いた時のことは、これからも事あるごとに思い出すだろうし、後年きっと「この人との出会いは、間違いなく、私の薬剤師人生のターニングポイントの一つだったな」と振り返るであろうと確信している。

最近、すっかり道に迷ってしまっていた私に、無限のインスピレーションと、新たな目標をくれた人だったから。

 

という訳で、今回のエントリでは、私がこれまで一緒に働いてきた中で、ダントツ一位、そして将来、世界一の医師となりうる可能性もあるであろうこの先生のことを、個人的な思い出話を織り交ぜ、紹介してみたい。

 

最初に出会ったのは、確か、2021年初頭の冬。通称「地獄病棟」と呼ばれる、病院内でも最大の激戦地の急性期内科病棟だった。

その時のことは、よく覚えている。

「キミ、この病棟の薬剤師?(私の名札を見て)マイコって言うんだ。ボク、スティーブン。内科専攻医の訓練プログラムの2年目。よろしくね」と、人懐っこい笑顔で話しかけてきたから。

英国の研修医は、数ヶ月毎に変わるローテーションでの病棟勤務の他に、夜勤やら、外来やら、年次休暇やら、勉強日などで、皆、シフトが微妙に異なる。だから病棟では、ほぼ毎日、異なる先生たちと働く感覚。よって、改まって自己紹介などせず、いつの間にか、皆、自然と仲良くなっていく感じ。だから(この先生、珍しいな。自分から私に自己紹介してきて。。。)というのが第一印象だった。

で、それは、アイルランド人特有の親しみやすさ所以だったのだと、次第に知ることになる。英国とアイルランドは隣国ではあるけれど、実は、全く性格の異なる人たちであると巷ではよく言われている。私もその後、スティーブン先生と一緒に働くようになって、それは確かに本当であると実感した。

 

スティーブン先生と働き始めて、すぐに気づいたことがあった。

ものすごく優秀。でも、それを決してひけらかさない。だから、一見すると平均レベルの医師かな? と誤解されがちなのだけど、患者さんや同僚たちに接する際の温かさが群を抜いていた。

英国出身の医師は、これとほぼ真逆。「見て、見て。俺・私、すごいでしょ!」といった態度が(口に出さずとも)滲み出ている人が多い。だからフィードバックで褒める時は大袈裟にする方がより効果がある。

で、私が他の研修医の先生がよくやったことを具体的に褒めると、スティーブン先生はそれをそばで(さり気なく)聞いており、翌日からその「私が他の先生を褒めたこと」を自分でも(きちんと)実行していた。だから、成長がものすごく早かった。でも、スティーブン先生の手柄を表立って褒めると、シャイな一面の性格から顔を真っ赤にしてしまい、他の英国人の先生たちからからかわれてしまうということがあったので、私自身、時と場所に、注意を払わなければならなかった。

あと私へよく、患者さん一人一人の薬剤治療について質問をしてきた。でもそれらは決して愚問ではなく、尋ね方が的確で、かつ謙虚だった。で、そこから得たものを、これまた即、自分のものにして、他の患者さんにも柔軟に応用していた。アイルランド No. 1 の医学校(=ダブリン大学トリニティカレッジ)の卒業なのに、こんな私の言うことを全く疑いなく聞いて取り入れるなんて(ホントに)素直な人だな。。。と(内心)思っていたりした。

 

そんな日々の中、私は次第に

「何で皆、スティーブン先生の凄さに気づいていないんだろう?」と(不思議に)思うようになっていった。

この先生、能力も性格も、本当に「レベチ」だよ。何で皆、分かっていないんだろう。。。? ってね。

だから、ある日、病棟のデスクで先生と2人きりで働いていた時に、ふと、

「何で、こんな(ロンドン郊外の、ごく普通のへぼい)一般病院で働いているの? もっと良い病院に移った方がいいよ。若いんだし、人生は短いんだから。あなたは、すっごく可能性のある医師よ」という言葉が、私の口から自然と出た。

スティーブン先生は、え? と不意をつかれたかのように一瞬戸惑った表情の後、みるみる顔を真っ赤にしながらも、私が言ったことを噛み締めるようにはにかんで;

「Thank you, Maiko. It means a lot to me.(ありがとう、マイコ。そう言ってくれて、すっごく嬉しいよ)」と。

その時以来だったように記憶している。2人の間で(言葉にできない)絆ができたのは。

 

でもその数ヶ月後、スティーブン先生の急性期内科ローテーションは終了となった。

最後の勤務日、晴れやかに病棟を出ていく姿を見送りながら、

「これから、寂しくなるなあ」という気持ちになった。

 

その後、スティーブン先生は、関連病院内のさまざまなローテーションを廻ったみたいだけど、忙しい入院トリアージ病棟でテキパキと働いていたり、病院中のスタッフから煙たがられていた癖のある医局長のローテーションでも、その先生からもの凄く可愛がられていた様子だったので、さすがだな、医師としての優秀さと性格の良さが相まった人間力っていうものなんだろうな、と傍目で見ていた。夜勤時に、かたや緊急医療室勤務、私は自宅待機の当直薬剤師として、病院の電話交換手から電話が繋がれた時「あ、今晩の当直薬剤師、マイコだったんだ。良かったー! 元気? 久しぶりだね。ごめんね、深夜の電話。で、質問があるんだけど。。」なんて、真夜中に会話することもあった。

 

2022年、私は処方薬剤師免許の取得を目指し、パートタイムで大学院へ通った。その期間、学業と仕事を両立させるため、一時的に外科病棟へ配置換えしたため、内科医を目指しているスティーブン先生とは、ほぼ接点が無くなった。

そんな中、一度、寒い週末の夜、病院近くの歩道で、ばったりと会ったことがある。私はパートナーと一緒にロンドン中心街で楽しく外食した後、2人で自宅へ戻る帰途だった。

「これから、夜勤なんだ。急いでいるんで、ごめん」と言いつつ、いつになくぶっきらぼうで、疲れ切った様子だった。

病院の緊急医療室の従業員専用出入り口に入っていく先生の後ろ姿を見ながら、

(いつもはあんなに温厚な人でも、機嫌が悪い時があるものなのね。。。)と。

今思えば、それは、中堅研修医としての訓練が終わりつつある時期、より良いポジションが確保できないフラストレーションだったかも知れないし、理不尽な仕事量のプレッシャーだったり、私生活でのトラブルであったのかも知れない。

その日を最後に、スティーブン先生の姿を、全く見かけなくなった。

私自身は、彼の苦悩を知ることなく「他のより条件の良い病院へ転職したのかな?」と(勘違い)していた。

 

でも時は巡り昨年 2023 年、研修医たちのストライキが相次いでいた春先のとある日、担当の病棟へ通常より遅れた時間に向かうと

「マイコ!」と呼び止める人がいた。

振り向くと、スティーブン先生が笑顔で、目の前に立っていたのだ。

そして開口一番;

「朝一番でやってきて(電子処方箋システムを見て)、この病棟、絶対に、マイコが担当しているって、一目で分かった。だって、どの患者さんの薬剤治療も完璧だもん。だから、マイコ、今日、一体いつここに来るのかなーって、待っていたんだよ」と。

久しぶりに会った先生は、研修医訓練プログラムから(一時的に)離れる決心をし、思い切って1年間休みを取っていたという。そして、世界中を旅しながら「時々」英国へ戻って、派遣医師として働くという生活を送っていた。でもその日は、私の担当病棟の1日限りの派遣医師ながらも、常勤の医師たちよりはるかに有能かつエネルギッシュに働いており、再び尊敬の念を新たにした。良い医師と一緒に働くほど、臨床薬剤師として職業的充実感を得られるものって、そうそうないな。この先生とはこれからも、折あるごとに、ずっと一緒に働いていきたいな。。。と。

 

でも、その日の終わりに、先生は、

「ボク、多分、今年の秋から、オーストラリアで働くことになる」と、私に打ち明けた。

晴天の霹靂だった。

その日のことは、過去のこちらのエントリ(⬇︎)でも綴っています。

 

それからまた、スティーブン先生を見かけない日が続いた。

派遣医師として、病院内で医師が不足している時だけ働く勤務形態だったし、彼自身もオーストラリアに移住する準備で、忙しかったのだろう。

時を同じくして、私もプリンシパル薬剤師への昇格が決まり、その契約前の最後のご奉公ともいうべく、あの「地獄の急性期内科病棟」で再び働くことを頼まれ、ロンドン・サリー州境界の一般病院へ異動になった。

スティーブン先生は、ロンドン側の大学病院で派遣医師をしていたので、もうこれで、会わなくなるだろうと思っていた。

英国の病院薬剤師は非常に厳密な階級制になっています。私は最近、その中でも、臨床現場薬剤師としての最高位である「プリンシパル薬剤師」に昇格しました。その経緯にご興味のある方は、こちらのエントリ(⬇︎)もどうぞ。

 

しかし、であった。

今年7月、研修医が再々度ストライキを決行した日、「ロンドン側の大学病院の入院トリアージ病棟で働けるシニア薬剤師がいない。マイコ、1日だけ手伝って」と配置換えをされた日があった。

案の定、もの凄く忙しい日で、昼食もままならず「お腹すいた。。。サンドイッチでも」と午後3時ごろ病院内のコンビニへ向かうと、その入り口で、その日一日だけ、全く別の階の高齢者病棟で働いていたというスティーブン先生と、ばったり鉢合わせになったのだ。

2人ともその偶然に驚き、そこで立ち話をすることになった。

「オーストラリアに、いつ旅立つの?」と尋ねると、10月末の予定だという。

それを聞き、これが最後の別れになる(かも)と直感した私は、思わずこう言った。

「あなたは、私がこれまで一緒に働いてきた研修医の中で、飛び抜けて最高の人。そして、これから、世界一の医師になる可能性もあると思う」と。

そして、

「実は、私、今、再び、あの地獄病棟で働いているのよ。今年の夏の終わりまではいると思う。オーストラリアへ行く前に、もしあの地獄病棟での派遣医師の勤務スロットがあったら、是非、来てね」と言うと、

「あはははは。。。マイコがいるんだったら、あの地獄病棟で再び働いてみるの、悪くないな。考えてみるよ」と。

そしてなんと、スティーブン先生は、私の連絡先をもらえないか? と聞いてきた。

もし将来、英国に戻ってくることがあった場合、英国時代の働きぶりを知る人としての「身元保証人(=仕事などの応募の際に、推薦状を書く人)」になってもらいたいから、と言って。

本当に光栄だった。

 

気づけば夏が終わり、私も9月は日本へ帰国し、日本薬剤師会の学会へ登壇したりした。

ただ、英国滞在ビザ更新の手続きが思いのほか長引き、来る日も来る日も、相変わらずハードな「地獄病棟」で働き続けることに、嫌気が差す毎日だった。

 

11月になって、スティーブン先生のことを(ふと)思い出すことがあった。

私自身、英国の滞在ビザ更新の最終段階で、英国法務局との面接日を控えていたため;

そう言えば、先生は、オーストラリアへの移住ビザの取得、大丈夫だったのかな? まあ、音沙汰がないということは、きっと無事に旅立ち、今頃、シドニーの病院で働き始めようとしているんだろうな。。。 本当に、あの「コンビニ前での立ち話」が、最後になっちゃったんだな、なんてね。

 

でもね、そこで終わりではなかったの。

思いがけない運命の悪戯(いたずら)が待っていたのだ。

 

その晩、病院の医療コンピューター上で、たまたま偶然に、スティーブン先生が数日前に発行した電子処方箋を見つけたのだ。

「え。。。先生、まだ、英国にいるの。。。!?」

 

高鳴る胸を抑えられなかった。

 

この話は、次回に続きます。

 

では、また。