私事であるが、先月末、父が亡くなった。
過去約15年、認知症、水頭症、パーキンソン病を患っての86歳の生涯だった。
今回のエントリでは、その病の経過を伝えたい。
家族の一員として、そして、医療を職業とする者としての視点から、あの時、ああしとけばよかったのかな。。。という後悔も含めて。
私が最初に、あれ、父、変だな。。。? と感じたのは、父が70歳の時。
節目の誕生日を記念して、娘のロンドンの所へ行ってらっしゃいと、母が父に海外旅行をプレゼントした。
でもその父娘の珍道中の旅で、私自身、父が、あまりにもヨタヨタと歩くのが気になった。「ロンドンの街は石畳が多いね、日本のアスファルトの歩道に比べて膝に響く(=痛い)」と言っていた。ロンドンで石畳の道が多いのは、確かに事実なのだが。。。
この旅では、強行軍であったが、朝一番・最終便のユーロスターに乗り、ロンドン⇄パリへの日帰り旅行もした。
エッフェル塔に登った後、ルーヴル美術館へと考えていた。でも、私が開館時間を勘違いして、入館できなかった。
絵の好きな人で、若い時、東京・上野の美術館で見た「モナ・リザ」をもう一度見たいと言っていたため、とても残念そうにしていた。
私は申し訳なくて、
「また来よう。私はロンドンに住み続けるし、そうしたらパリは、いつでも来れるよ!」と言った。
でもその「また次の機会」は、結局なかった。
その後、父は、よく転倒するようになった。
若い頃から高血圧で、その薬が(年齢と共に)効き過ぎてきたのかな? と、最初は深く気に留めていなかった。
でも性格的に頑固な人で、転倒しても、自分で起き上がると言って聞かず、細身の母の力ではどうしようもできず、近所の方やら見知らぬ通行人に助けてもらうということを繰り返していたよう。
こういう時、英国だったら、即座に救急車が呼ばれ、最寄りの大学病院の緊急医療室へ運ばれ(待合室でものすごく待たされるけど)その日のうちにレントゲンを撮って、退院か入院かが決まる。入院したら、その経過で、MRI 検査とかもして、認知症も、早期発見できたかも知れない。
父の75歳の誕生年を記念して、家族で京都へ旅行した。
でも歩くことを億劫がる父は、金閣寺とウェスティン都ホテル(→父と母の新婚旅行での滞在先だったそう)を訪れただけだった。そのタクシーの乗り降りでさえ、運転手さんから「おたくはん、中風をやりましたん?」と言われるほど、半身不随のような歩きぶりだった。
後の旅程はほぼ全て、宿泊先の旅館で一人、留守番をしていた。母と私が観光から戻ると、父は、旅館の部屋で失禁していた。
そのうち、物忘れがひどくなり、脳神経科を受診すると、認知症と診断された。
ケアマネージャーさんがつくようになった。デイ・サービスという通所介護施設にも通うようになった。
ケアマネージャーさんとは、確か、私が日本で病院薬剤師として働いていた時代 (1990年代後半) に「これからの高齢化社会での統合的な資格職」としてできた仕事だったはず。以後は、私が日本へ里帰り休暇をした際に、父のケアマネージャーさんの何人かにお会いすることがあったが、皆、心ある素晴らしい方々ばかりだった。
ちなみに英国では、こういった包括ケアを「パッケージ・オブ・ケア (Package of Care, 通称 'POC') 」と呼んでいる。地域によって、サービスの良し悪しにかなりの差がある。日本の在宅ケアを基盤としたきめ細やかな介護サービスは、世界に誇るレベルだと思う。
母は、毎年段階が上がる父の介護レベルとそれにかかる医療費の支出に戸惑いを隠せないでいた。それでいて、年に一度行われる要介護認定のレベルが低くなると、高齢の母の重荷となる。お金と労力のトレードオフだった。
でも、父の介護ニーズが上がるにつれ、母の疲労を軽減するため、父は月に一度、ショートステイという数日間の介護宿泊施設に泊まれるようになった。英国では、こういったサービスは「レスパイト (respite)」と呼ばれているが、主にがん患者さんの使用に限られている。
父がショートステイで自宅不在の日に、母から必ず私の元へ、近況報告の国際電話があった。いつもは父の介護でいっぱいいっぱいだったのだろう。母が少しでも息抜きができるようになったのは、何より有り難かった。
そのうち、父の病名に「パーキンソン病」も加わった。これには、私もショックだった。
それと、父がデイ・サービスに通っている間に、そこに通っている他の患者さんと不必要に喧嘩をしてしまったということも聞いた。恐らく、認知症の症状の一つである精神障害が出てきたのだろう。
そんなある日、母が、自宅に配達される地方新聞をたまたま読んでいた時だった。
実家のある仙台の東北大学病院の専門医により、「水頭症」のことが、分かりやすく解説されていたという。
その記事を読み、母は衝撃を受けた。まさに夫の症状そのものではないか、と。
その記事の切り抜きを持って、母は、父のかかりつけだった脳神経科病院の先生に会いに行った。そして、
「この大学病院の先生を紹介して下さい。手術(=シャント術)をさせたいです」とお願いした。
でもそのかかりつけの医師は、とても嫌な顔をされたという。
憶測であるが、そこは、恐らく学閥で、教授選に敗れた方が、大学病院を離れて運営されている病院であったのだろう。
でも、母が何度も何度も何度も頼み込み、最後はそのかかりつけの先生の前で号泣(→注:嘘泣き)してお願いし、ようやく大学病院の水頭症の専門医を紹介してもらえることになった。
その経緯を聞き、母の友人・知人は口々にこう言ったという。
「誰か、知り合いに(紹介を頼める)医師はいなかったの? こういうのは(コネ)と(お金)で動くものなのよ」と。
英国では、医療の流れが、自分が登録している「家庭(=かかりつけ)医」から、その地域の「大学病院の専門医」へと一元化されている。患者が自由に病院を選べない代わりに、国の定める標準医療ガイドラインの元、原則、どの医師に診てもらっても、行き着く治療とその提供の機会は、皆、平等で一緒だ。
紹介料やお礼金なども、一切ない。医師がそれらを患者から受け取ったら、懲戒免職になる。
「たとえ手術をしたとしても、今の症状は(もう手遅れで)改善しないと思いますよ」と大学病院への紹介を渋ったそのかかりつけ脳神経医の予測を大幅に覆し、父の手術は大成功だった。
父は以前とは見違えるほど、覇気のある様子となった。
この父の小康期間とも言えた数年の間、父の80歳の誕生日を記念して、家族で温泉旅行に行ったり、何十年も疎かにしていた先祖のお墓参りをした。
この家族のかけがえのない思い出を作る時間を(かかりつけ医の前で嘘泣きまでして)作ってくれた母には、本当に感謝の言葉がない。
2019年秋に、私が日本へ里帰り帰国した際、パートナーもやってきて、実家に数泊した。父は、私の通訳を介して、彼と和やかに談笑した。
帰り際、自宅から駅へ向かうタクシーを呼んだ時、父は珍しく;
「玄関外で見送るよ」と言ってきた。
私は「またすぐ、帰ってくるからね」と言って、タクシーに乗り込んだ。
父と母は、私たちの姿が見えなくなるまで、笑顔で手を振っていた。
タクシーの後部座席の窓越しに、涙で潤んだ目で見たその光景が、私が目にした、父が自分の足で立っていた最後の姿となった。
でもその数ヶ月後、新型コロナウイルス (COVID-19) のパンデミックとなった。
数年間、世界レベルで海外渡航が規制された。
2021 年3月、父は再度、転倒した。
それからは歩行が本当に困難になり、リハビリ専門の病院へ入院する朝だったという。
血便が出た。消化性潰瘍で、恐らく、痛め止めで服用していた NSAID の副作用からくるものだった様子。輸血が必要なほどの貧血状態になっていた。
救急車で搬送されたが、数カ所をたらい回しにされた後、ようやく引き受けてくれた病院に入院することになった。
そこは、下の方の階は一般外来と入院病棟、上の階は、高齢者介護施設になっている医療機関だった。
消化性潰瘍から回復した時点で退院し、再び在宅ケアという選択肢もあったのだけど、母の負担が大きくなることから、父はこの入院を機に、その病院の階上の介護施設でお世話になることになった。そしてその後は2年8ヶ月、一度も自宅に戻ることなく、最後の数ヶ月はこの病院の階下の内科病棟へ入退院を繰り返し、そこで生涯を終えることになった。
ちなみにこの高齢者介護施設は医療保険が適用されず、3年弱で、父に要した介護費は、1000万円を超えたという。
こちらの介護施設で、一度、歩行のためのリハビリ訓練を拒否したら(→認知症の精神症状もしくは身体的な痛みから、ものすごい剣幕で理学療法士さんたちを怒鳴り散らしたとのこと)、以後、リハビリは提供されなくなった。それからは、全て車椅子の介助生活となった。
新型コロナウイルス (COVID-19) のパンデミックもあり、母も父と滅多に面会が叶わず、状況が掴めず、もどかしい日々が続いた。
今年3月、私がようやく英国から日本へ渡航できるようになった時、父の介護施設は、私の面会訪問に乗り気でなかった。無理もない。私、日本とは桁違いの数の新型コロナウイルスによる死者を出した英国国営医療サービス (NHS) の最前線で働く医療従事者だしね。。。
でも母が「これで今生の別れになってしまったら、後悔しますので。。。」と頼み込んで、特例で面会を許可して頂いた。私はそのため、普通の人より余分の回数の COVID-19 ワクチンを接種しなければならなかった。
3年以上会ってなかった父は、完全に車椅子生活になっていた。でも、まだそれなりに意思疎通が取れ、帰り際、エレベーターのドアが閉まるまで、手を振ってくれた。
介護施設のスタッフの方が、記念写真(⬇︎)を撮って下さった。結局これが、家族全員の最後の写真の一つとなってしまったので、今となっては、私の何よりの宝物だ。
9月に帰国した時、和歌山での日本薬剤師学術大会へ向かう前日に、再度、父を訪問した。
制限時間わずか10分の面会時間の間に、できるだけ楽しい話をした。でも、父はその数ヶ月前に脳梗塞を起こしたこともあり、反応が鈍く、簡易ベッド式車椅子でスタッフの方の手により病室へ戻る際、母と私の方を(一切)振り返らず、スーッと消えていった。
「ああ、父は恐らく(認知症ゆえの、短期の記憶の欠如で)たった数秒前まで、私たちと会っていたことすら、すでに忘れているんだな。。。」と、寂しさを感じた。
そしてそれが、私が目にした、父の生前最後の姿となった。
和歌山の学会が無事終了し、英国へ帰国し、私自身、どうしてもやらなければならないことがあった。
「英国バイオメトリックレジデンスパーミット(Biometric Residence Permit, 通称 BRP) 」の取得である。
BRP とは、現在、英国に在住する外国人(=英国籍パスポートを持っていない者)が、原則、全員取得しなければならないもの。
以前は色々なフォーマットで発行されていた滞在ビザの形式を統一すべく導入されたもので、生体認証が組み込まれている。英国では現在、このカードを持っていなければ、仕事に就くことが不可能になりつつある。
私は、最近、仕事が変わったため、勤務先の病院の人事課から「(従来の永住権ビザをアップグレードする形として)早急に BRP を取得してくれ」と要請が来ていた。
こういった英国のビザ申請は、やり方が猫の目のように変わる。例えば、閑散期であれば英国法務局へ直接出向けば即日発行ともなり得るが、世間がホリデーシーズンの時は、郵送でしか受け付けないとか。そのため最悪の場合、私の日本のパスポートが英国法務局に数ヶ月間保留されることも予測された。だから私は、今年9月の日本での休暇の終わり際、母に何気なく;
「ビザのこともあるし、当分は、日本へ帰れなくなるかもね。。。」
と言って、日本を去った。
でも、その一言が仇となった。
母は私が言ったことを(真に)受け止め、それからの父の病状の悪化を、私に一切知らせず、父の最期を一人で乗り切ったのだった。
私が英国へ帰国した直後から、父の容態は、急に悪化の一途を辿ったという。
誤嚥性肺炎で左肺は全壊、右肺も3分の1しか機能していない状態になった。排尿困難のため、恥骨上留置カテーテルが必要になり、亡くなるわずか数週間前に他の病院へ搬送し挿入してもらったとのこと。しかも「栄養不足です」と言われ、最後まで中心静脈から TPN を投与していたそう。
死去の知らせを受けた時、母は、
「パパ、あまりに浮腫んだ身体で、ひどい死に顔よ。見ない方がいい。あなたは、葬儀のため、無理して帰国しなくていい」とまで言い出しました。
それを聞き、私は、最期の1−2ヶ月で、そこまでやる必要があったのかな? 緩和ケアという選択を提案されなかったのかな。。。? と。
医療に携わる者として、家族の病状やその治療を冷静に判断したりコメントするのは、本当に難しいと思っています。
父の病の経過や治療について、私は、母から聞くのみでした。
あえて主治医から詳しく聞かなかったのは、もしかして父の治療方針が私から見てベストではなく、何らかの医療ミスとかが起こっていたとしても、
私だって、国は違えど最前線の医療従事者で、患者さんやご家族の方々へのインフォームドコンセントの徹底とか、チーム医療の中でのスタッフ間での病状や治療方針についての見解の多少の相違や、限られた時間などの中で、最善を尽くせない時もあるのだから大目に見よう、といった、家族を身代わりにした身勝手な懺悔だったのかも知れませんし、
でもその一方で、父の、特に末期に行った積極的治療の数々を聞くにつけ、やはり「娘の私は、英国で働く臨床薬剤師です」と伝え、主治医に直接、国際電話をかけてでも、病状や治療の詳細を逐一教えてもらい、家族としての意見や希望を明確に伝えるべきだったのか。。。
その正解は、今でも分かりません。
いつの間にか、年の瀬ですね。
皆さま、良い年をお迎え下さいませ。
では、また。