すっかり言い(書き)そびれていたのですが。。。
数ヶ月前、転職試験に受かり「プリンシパル薬剤師 (Principal Pharmacist) 」に昇格した。
英国の国営医療サービス (NHS) が定める職務階級制の中で、臨床現場薬剤師としては最高位のポジション。
英国の国営医療サービス (NHS) に勤務する薬剤師は、非常に厳密な階級制と役職が定められています。その詳細は、以前のこちらのエントリ(⬇︎)をどうぞ。
プリンシパル薬剤師になることは、長年の目標だった。
いや「目標」なんていう、生やさしい言葉ではない。
これまでの人生のほぼ全てを賭けた「夢」とも「野望」とも「執念」とも「悲願」とも言える、長い長い道のりの達成だった。
で、この数ヶ月間、その道のりを、あれこれと振り返っていた。
今日は、そこで色々と思い出したことを、綴ってみることにする。
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日本で入学・卒業した薬科大学(⬇︎)は、第一志望じゃなかった。だから、この大学時代の学業には全く興味が持てなかった。当時の薬学部って、基礎化学一辺倒って感じだったし、臨床薬学は選択科目で、私、受講しなかったしね。でも、そんな学生が、後年、英国で臨床薬剤師になったのだから、人生ってホント分からない。
でも、最終学年の卒業研究で配属された大学の附属研究所の指導研究員の方が、超絶面白い人でね。大学時代の一番の思い出となった。思い起こせば、当時、この先生が海外留学の準備をしているのを傍目で見ていて、それで私も海外に興味を持つようになったのだと思う。
そういえば、この先生(リンク下⬇︎)、なぜか私によく「アンタは、日本より海外へ行ったほうが、うまくいくだろうね」と仰っていた。今思えば、不思議な暗示だった。
ちなみに私の卒業研究の指導員とは、現在、北里大学の細菌感染制御学の教授となられている阿部章夫先生(⬇︎)でした。
日本で薬剤師として最初に就職したのは、東京都杉並区にあるキリスト教系の病院だった。米国式の薬局業務を取り入れたやり方が斬新で、素晴らしい上司に恵まれたけど、当時の時代背景もあり薬剤師としての日々の仕事は単調だった。あと女性だけの職場だったので、人間関係で、それなりに色々あった。
だから薬剤師として働き始めて早々に、外の世界に目を向けようと「夜間学校へ行こう」と決めた。そこで選んだのが、東京・お茶の水にある語学学校「アテネ・フランセ」の英語科だった。
病院薬剤師として働いていた5年半、アテネ・フランセで習った拙い英語で、武者修行をするかの如く世界中を旅した。そこで「薬剤師の市場は、日本だけじゃない」と気づいた。
そんな中、英国のロンドン大学薬学校で実践的な臨床薬学・国際薬局実務&政策コースが開講されたことを知り、直感的に「ここだ!」と、留学を決意した。
私が23年前に、最初に英国へやってきた目的は、留学生としてロンドン大学薬学校の大学院で学ぶためでした。そのコース在学中の思い出は、こちら(⬇︎)のエントリをどうぞ
この大学院のコースは、本当に衝撃的だった。薬剤師って、こんなにかっこいい仕事だったんだって感動し、心が震えた。
コース長は事あるごとに「あなたたち、まだ、調剤なんてやっているの?」と学生たちに発破をかけ、煽るような人だった。英国の薬局のスタッフは厳密な階級制となっている。「調剤はテクニシャンやアシスタントに任せ、あなたたちは、臨床業務に専念するのよ!」と。次世代の臨床薬剤師の教育と訓練に情熱を注ぎ、その将来を常に 10 年先まで予測している人だった。
大学院の講義と並行して行われた病院実習では、英国最高峰のロンドン聖トーマス病院の薬学教育部長でありプリンシパル薬剤師であった先生から教えを受けた。こういう臨床薬剤師になりたい、という理想像を正に体現している人で、私は大学院在学中、この先生の後を、いつも金魚の糞💩のように付いて廻った。
この先生との出会いこそが、私が「プリンシパル薬剤師」を目指した原点だったんだろうね。
ロンドン・聖トーマス病院で病院実習をしていた頃の思い出は、こちらのエントリ(⬇︎)もどうぞ
でも、人生は甘くない。英語をまともに話せず、日本の薬科大学では国試に受かるだけの付け焼き刃的な勉強しかしてこず、薬剤師になってからも真剣に働いていなかった私は、この大学院のコース、全く太刀打ちできなかったのだ。
結局、予定通りの1年で卒業できなかった。資金が尽き、日本へ帰らざるを得なかった。
でもね、一度灯った情熱の炎は、消せなかった。
日本での1年間の帰国中、ドラッグストアで働いて荒稼ぎしたお金を元手に、それまで築いてきたものを全て失っても構わない覚悟で、翌年、英国行きの飛行機に乗り込んだ。
絶対に、英国で薬剤師になる。
そしていつの日か、その最高位の「プリンシパル」になるんだって、心に誓いながら。
結局、ロンドン大学薬学校の大学院は2年間かけ、歴代の履修生の中でも最下位の成績で卒業した (→この記録は、今でも破られていないはず。あはははは。。。)。
留学生として全財産を使い果たしていた私は、当初、ファーマシーテクニシャンとして働いた。と言っても、ロンドンの国営病院で、労働許可書を持っていなかった日本人が就職できたのは、今振り返っても、奇跡とも言える幸運であったのだけど。
ファーマシーテクニシャンの職探しをしていた頃の話は、以下(⬇︎)のエントリをどうそ。計12話のシリーズとなっています
当時は、日本円に比べて英ポンドの貨幣価値が高かった。だから英国でテクニシャンとして働いても、日本で薬剤師として働くのと同等か、それ以上の年収となった。国によって、薬剤師の給与が異なることを知ったのは、驚きだった。
ちょっと仕事を頑張っただけで、雇用先から「最優秀雇用者賞」を受賞した(写真下⬇︎)。日本では、なんちゃって薬剤師、薬学生としては落第生だった私でもこれだけ評価されるのだから、日本人って実はものすごく勤労意識の高い優秀な国民なんだな、と異国の地で理解した。
そこそこに給与の良いテクニシャンとして働き、気楽な生活を送っていたが、風向きが変わってきたのは、2008年の世界経済恐慌が起きた頃だった。
新しく赴任してきた上司が横暴邪悪な人で、テクニシャンとして働くのが窮屈になってきた。
時を同じくして、私自身も英国の永住権が取れたので、いよいよ、英国で薬剤師になることを決意した。ちなみに余談であるが、この元上司、その後、英国税務局を騒然とさせる犯罪を犯して逮捕された。つい最近、刑務所での服役を終えたらしい。
でも、世間が不景気の真っ只中に英国の薬剤師免許を取得したため、いざ英国の薬剤師となっても、就職先が全く見つからなかった。先の見えない将来に、八方塞がりとなった。
この時期は、本当に苦しくて、もうダメだ、日本へ帰ろうと本気で考えた。でも現実では、英国の薬剤師免許を取得するのに履修が必要だった免許変換コースの費用や、定期的に収入が得られないために生活が窮乏し、借金を背負っていた。日本へ帰って新しい生活を築く経済基盤すらも失っている状態だった。
この辛かった時期、ロンドンの日系医療クリニックでアルバイトをした。そこで知り合った在英日本人の方々は皆、今日に至るまで、事あるごとに私を支えてくれ、人生に彩りを添えてくれる真の友人たち。英国で薬剤師になって順風満帆であったら、恐らく巡り会っていなかったであろうから、この経験を通して「人生で辛い時でも、いいことは(こっそりと)隠れている」ということを、深く信じるようになった。
2年間のどん底の失業生活の後、ついにロンドン郊外の大学病院に就職することができた。
で、いざ英国薬剤師として働き始めてみると、最初の1年目は、勝手の分からない新しい職場環境や、知識・経験不足で、先輩・同僚のほぼ全員から、非難轟々にこき下ろされた。皆、優秀で競争的な薬剤師ばかりだった。ベテランのテクニシャンの中には、新卒の薬剤師より遥かに優秀な人もいる。大袈裟な言い方かもしれないけど、当時は「奈落の底に突き落とされ、無理やり泳がされる。さもなければ、溺死だ ('Swim, not sink, when you were thrown in at the deep end' - 英語表現での有名なサバイバル句) 」という経験を毎日していた。
そんな仕事でのストレスで疲労困憊の日々、街で強盗に襲われたこともあった。持っていた全ての所持品を奪われた。この時に受けた心的外傷ストレスは、後々、精神的にも身体にもあちこちに症状が出た。同じ時期、職場の病院の階段を急いで駆け上がっている最中に異変を感じ、担当病棟に着いた途端に、意識を失って倒れたこともあった。気づくと、私は床に横たわっており、その病棟の何人もの医療スタッフたちに囲まれていた。
心身ともにボロボロであったが、辞めれなかった。辞めたら負けだ。英国でのキャリアは終わる。プリンシパル薬剤師になることが、夢のままで終わる、と。
この頃から、臨床薬剤師として真の実力をつけたくて、毎日終業後、翌日の担当予定の患者さんの薬剤治療のプランを自分の頭で考え抜き、調べ上げ、徹底的に準備するということを始めた。どんなに睡眠時間が削られようと毎晩やった。この8−9年、毎日欠かさず続けている。
自分で考案した地味な訓練法であったが、そのコツコツとした努力が、ある時から徐々に成果を見せ始めた。私を見下していた同僚や先輩たちも、次第に「あの子、なかなか気概があるね」と思い始めたみたい。
その当時の同僚たちの殆どは、他の病院でちょっとでも良いポジションがあると、さっさと転職していった。でも私は、
「この大学病院で、一通り全部学んだ後に、シニア薬剤師として転職しよう」と思っていた。
そういう所は、私、ものすごく古風で日本人的な考え方をする人(苦笑)。
そんな具合で約2年半経ち、ジュニア薬剤師としての最後のローテーションにいたある日、副薬局長の部屋に呼ばれた。
「今度、国家プロジェクト関連の仕事で、ウチの病院で『プリンシパル薬剤師』の求人が出るんだけど、どう?(=あなたが応募するんだったら、合格させるわよ)」と言われた時は、本当に驚いた。
そして私は、ジュニア薬剤師からプリンシパル薬剤師へと、異例の飛び級で昇格したのだった。
でも、この仕事は、プロジェクトワークゆえ、6ヶ月で打ち切りとなった。
実は「プリンシパル薬剤師」と一言で言っても、さまざまな業種がある。花形は何といっても臨床薬剤師職だけど、薬局のスタッフやオペレーションを統括する管理職とか、医薬品製造部署とか、はたまた薬局内の IT 設備・メンテナンス部門にもプリンシパル薬剤師職は存在する。
短期間なりに、プロジェクトワーク分野でのプリンシパル薬剤師をやってみて、私はデスクワークより、臨床現場前線で働く方が好きなんだな、ということを再確認した。
だからその後は、ちょうど勤務先の大学病院内で空きが出た「感染症専門シニア薬剤師」の職に移った。
感染症専門薬剤師の仕事は、本当に楽しかった。特にチーム医療の中で、生死の境目のような患者さんの薬剤治療にダイレクトに貢献できるのは、とてもやりがいがあった。それに加え、感染症は、結局どの分野も網羅しているので、オールラウンドに対応できる臨床薬剤師として、病院内で最も忙しく危険度の高い「急性期内科病棟」も担当し、臨床薬剤師としての腕が飛躍的に上がっていくのが実感できた。
でも、私の上司(=感染症専門プリンシパル薬剤師)は、この大学病院で定年までずっと働き続けるような意向を持っている方だった。プリンシパル薬剤師というのは、原則、現職の人が辞めなければ、求人が出ない。だから私は数年前から、感染症分野でのプリンシパル薬剤師になりたければ、他の病院に転職するか、もしくは、今の大学病院に居続けるのであれば他の専門分野に鞍替えして、プリンシパルを目指すしかない、とも思い始めていた。
で、ある日ふと、自分の胸に手を当てて「本当は、どの分野をプリンシパル薬剤師として極めたいのか?」と問いかけた時、正直、その答えは、感染症ではなかった。
兼任の仕事であったはずの「急性期内科」だったのだ。
そんな訳で、昨年辺りから「願わくば、自分がより楽しめる、急性期内科に専門を鞍替えしたいな。。。」と(ぼんやり)考え始めていた。
そんなこともあり、2023年初めの目標は「どこか他の病院で、内科分野のプリンシパル薬剤師の求人が出れば、転職する」ということも念頭に置いていた。
そんな矢先の今年の春のことだった。
私の職場の大学病院薬局で、突如、大々的な「人員組織図」の再編成が公表された。そしてなんと、その改革に合わせ、新しい役職「一般内科・プリンシパル薬剤師」が作られることが発表されたのだ。
「内科専門職」そして「プリンシパル薬剤師」。
まさに私がやりたいと、思い描いていた仕事だった。
薬局長と副薬局長に即「応募したい」と出馬表明をした。
「あなたにピッタリな仕事よ」と、2人とも満面の笑顔だった。
結局、この求人は公募ポストゆえ、全国から 50 名ほどの応募者があったと聞かされた。面接試験には4名呼んだが、最終的には私にオファーされた。
ほぼ 23 年を費やし、プリンシパル薬剤師へと到達した瞬間だった。
という訳で、今月末(明日)が感染症専門薬剤師としての仕事の最終日となり、正式にプリンシパル薬剤師となるのは来月からである。だが、内部昇格者ということで、新しい役職の仕事も、すでに並行スタートさせている。いきなり 20 人ほどの若手薬剤師の部下を持つことになり、スタートラインに立つか立たぬうちから、毎日、地獄の日々である。
でも、どんなに辛くても、自宅の机の上に変わらず置いてある、上述のチキンスープ缶のペン立てを眺めて、思い出している。
日本ではダメダメ薬剤師。英語をろくに話せず、英国の大学院の成績も最下位で卒業。そして経済的に無一文の時も;
「絶対に、プリンシパル薬剤師になる」
と、誓っていた日々のことを。
では、また。