日英薬剤師日記

イギリスの国営医療(NHS)病院で働く、臨床薬剤師のあれこれ

ヴァージニア・ウルフの足跡を訪ねて(上)ロンドン大学薬学校とブルームズベリー地区

 

ヴァージニア・ウルフという英国人をご存知でしょうか?

ジェーン・オースティン(『高慢と偏見』)、エミリー・ブロンテ(『嵐が丘』)などと並ぶ、英国を代表する女流作家(注:この3人が生きた時代とそれぞれの作風は、どれも皆、異なりますが。。。)。

ヴァージニア・ウルフは、「The Hours (邦題:めぐりあう時間たち)」というハリウッド映画で、豪・米女優ニコール・キッドマンが彼女の生涯を演じ、アカデミー主演女優賞を受賞し、再脚光を浴びた人でもある。

めぐりあう時間たち

めぐりあう時間たち

  • メリル ストリープ
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ヴァージニア・ウルフの小説はどれも「普通の人だったら、こんな構想や書き方をしないし、できないだろう」といった描写が際立ち、それゆえ世界中の読者を魅了している。

抗精神薬がまだ開発されていなかった時代に生きた人であったため、真偽は今もって謎であるが、恐らく精神分裂症・双極性障害を患っていたとされており、その病ゆえに、最後は自ら命を断ったことでもよく知られている。そのため数多くの精神医学者たちの研究対象にもなっている。

でね、ヴァージニア・ウルフは、私の人生の節目節目に、どういうわけだか(ひょこっと)登場する人なの。自分で言うのも変なのだけど、自身の脳内に潜んでいる亡霊のような存在なんじゃないかなと。

そんな風に思える経緯のいろいろを、今回から2話に分けて、書いてみたい。

 

私が最初に、ヴァージニア・ウルフの名前を知ったのは、高校生の時。当時、夢中になって読んでいた、日本人精神科医師・神谷美恵子さんの著作集の一つからだった。

神谷美恵子さんのライフワークの一つは、ヴァージニア・ウルフの病跡研究だった。それゆえ、なんと 1960年代、まだ存命であったヴァージニア・ウルフの寡夫レナードに会うため、渡英した。そして、夫婦で第2次世界大戦中の疎開先として暮らしていたという、イースト・サセックス州の『モンクス・ハウス (Monk's House)』と呼ばれる田舎の一軒家をはるばる訪れ、当時まだ全公開されていなかったヴァージニア・ウルフの日記を譲り受けるまで合意したのだそう。ただし、その手続きが捗らず、神谷さん自身、志半ばで死去したという事実を知った。

当時、海外旅行すら一度もしたことのなかった私であるが、

「会いたい人に、一人で飛行機に乗ってまで直(じか)に会いに行き、英語で意思疎通を取り、自分のやりたいことを実現させようとするって、かっこいい生き方だなあ。私もそんな人生を送ってみたい。『モンクス・ハウス』という場所やらも、いつの日か訪れてみたいな」

と空想を膨らませた。

それが 30 年以上の年月を経て、今年の夏、その『モンクス・ハウス』への訪問が遂に実現したとは、その時つゆ知らず。。。

<余談>「生きがい」という概念と言葉を生み出し、数々の珠玉のような著作がある方ですが、神谷美恵子さんの本の中で私が一番好きなのは、絶筆となった自叙伝のこちら(⬇︎)。人生の指針を得た本の一つです。

 

それから月日は流れ、私は 2000年秋から、英国に移り住んだ。

私が英国に最初にやってきた目的は、ロンドン大学薬学校 (The School of Pharmacy, University of London. 現 UCL School of Pharmacy) の大学院へ留学したためでした。その時の修士課程時代の思い出にご興味のある方は、こちら(⬇︎)のエントリをどうぞ。

最初の年のクリスマスの日、どこへも行き場のなかった私を、ロンドン大学薬学校の教務課長さんが、彼女の自宅のクリスマスパーティに招待してくれた。

彼女のご主人さんは、ロンドン大学の留学生サポート部長をしていたこともあり、夫婦共々「英国へ来たばかりで、身寄りがなく、クリスマスを一人ぼっちで過ごすであろう学生」に心を配り、声をかけていたのだった。そのため、世界中からの留学生たちとご夫婦のご家族を囲んだ、それはそれは賑やかな集まりとなった。

でも、そのディナー中、当時、英語が(ほぼ)話せなかった私は、皆の会話に混じれず、気後れしていたというのが正直なところだった。

そんな中、ふと「ヴァージニア・ウルフ」のことがテーブルの話題に上ったのだ。

そこで(ああ、やっと喋れることが出てきた、と)私の知っている彼女の生涯のことや、作品の見解を、トツトツとした英語ながらも話し始めると、皆の目の色が変わった。

あれれ? これまで一言も発してなかった無口な東洋人学生(=私のこと)、見かけによらず、英国文学について、高尚なことを話しているわ!!! といった驚きの表情で、皆、私の話に耳を傾けてきた。

だから、ヴァージニア・ウルフは「英国で暮らし始めて『きちんとした会話をして、人々の中に溶け込むことのできた』最初の話題」として、私自身、鮮烈に記憶しているのよ(笑)

そしてなんと、その一連の会話の中で、ロンドン大学薬学校の教務課長さんが;

「ロンドン大学薬学校の現校舎ってね、以前は、フラット(=集合アパート)として機能していた場所で、ヴァージニア・ウルフや、当時の文化人の多くが住んでいて、そこから『ブルームズベリー・グループ』が発展していった史跡地でもあるのよ」

と教えてくれたのだった。

 

「ブルームズベリー (Bloomsbury) 」とは、ロンドンの文教地区の代名詞。ロンドン大学本部の建物の周りをぐるっと囲んで、大多数のカレッジが集結しているエリアを指す。パリで言えばカルチェラタン、東京で言えば御茶ノ水といった、アカデミックな雰囲気が漂う独特な場所。

ブルームズベリー・グループとは、1910-40年代にかけてこのエリア周辺に在住した作家や芸術家、学者たちなどの中で、懇意に集う人々が形成していった知的集団グループ。当時の英国海軍を相手に大掛かりな悪戯を仕掛けたり、反戦活動を行ったり、後年、メンバーの中からノーベル賞受賞者も輩出したりと、人々の注目を集める存在となっていった。ヴァージニア・ウルフはこのブルームズベリー・グループの創始メンバーの一人であり、中心人物の一人だった。

今のようにネットのない時代の「英国人インフルエンサー」たちだったのだと想像している。

このグループの中からは、いくつかのカップルも誕生した。

ヴァージニア・ウルフ(旧姓:スティーブン)も、このグループの一員だった政治評論家・作家のレナード・ウルフと結婚し、「ヴァージニア・ウルフ」となった。

 

そんな話を、クリスマスのディナーテーブルで、思いがけず聞きながら、

私、今、そんな歴史的証人とも言える建物(写真下⬇︎)内で、勉学しているんだ。。。

と心が震えたのを覚えている。

 

私が約 24 年前に英国にやってきた当初学んだ「ロンドン大学薬学校(現ユニバーシティカレッジ薬学部)」。薬学校となる前は、ヴァージニア・ウルフがブルームズベリー・グループの仲間たちと住み、レナード・ウルフとの結婚を決めた場所だったそう。で、その証拠として、こちらの写真の右端に小さく写っている青い碑には。。。

ヴァージニア・ウルフを筆頭に「ブルームズベリー・グループ」の結成・初期メンバーが揃って居住していた史跡として「ブループラーク」登録(*注釈下⬇︎)がされている。後に彼女の人生の伴侶となったレナード・ウルフの名も記されている

(*注釈)ブループラーク(青い碑)とは、英国で著名な人がかつて住んでいた家や建物に登録される目印。いくつかの例は、私の過去のエントリ(⬇︎)をどうぞ

 

ちなみに、このロンドン中心地「ブルームズベリー地区」は、ちょっと歩くだけで、ヴァージニア・ウルフの人生を辿ることができる場所が至るところで見つかる。

地図上では、ロンドン大学薬学校の隣とも言えるメクレンバー・スクエア (Mecklenburgh Sq.) に面するこの場所は、1930年代後半から40年代にかけてウルフ夫妻のロンドンの住居だった場所。現在は学生寮となっている

ロンドン大学薬学校から5分ぐらい歩いた所に所在するこちらのホテル(写真下⬇︎)の前身は、ヴァージニアウルフと夫のレナードがロンドン市内で最も長く住み、自分たちで出版社 (Hogarth Press) を経営していた場所。

現「タヴィストック・ホテル (Tavistock Hotel)」。この場所は、第2次世界大戦中爆撃されたため当時の面影はないそうだが、献身的な夫レナードが、妻ヴァージニアの作品ができるだけ世に出るようにと、自宅兼自ら出版社を立ち上げ経営していた跡地

こちらのホテル玄関前にも、その旨の史跡として「ブループラーク登録」がされていました

ちなみに余談になりますが、このタヴィストック・ホテルの斜め向かいは、現在、英国医師会 (British Medical Association, 通称 BMA) 本部となっている(写真下⬇︎)。2005年7月7日、ロンドン同時爆破テロ事件が起きた際、この英国医師会本部前でも一台のバスが爆破され、多くの死傷者が出た。ホテル・英国医師会本部共々、急遽、仮設救命医療所となった。近隣の主要駅の地下鉄も爆破されていたため担架が不足し、ホテルからテーブルを持ち出すなどして負傷者を運んだんだって。

そしてこの英国医師会本部は、なんとその昔、英国の文豪チャールズ・ディッケンズ(代表作『オリバー・ツイスト』)が居住していた場所としてブループラーク登録がされている。ロンドン・ブルームズベリー地区は、至る所に「英国著名人の元住居」を見つけることができる

 

ロンドン大学薬学校を卒業した後、私は、英国でファーマシーテクニシャンとして6年半働いた。

やっとのことで就職できた場所が(たまたまであったが)精神科病院であったこともあり、職業柄、さまざまな精神病疾患に興味を持つようになった。

私が英国での最初の就職活動として悪戦苦闘した「ファーマシーテクニシャンの仕事を得た時の話」にご興味のある方は、こちら(⬇︎)のシリーズをどうぞ。

そこで、英語圏で出版されている精神病に関する書籍や教科書を色々と読んでみると、それらの中に「精神病を患っていた英国著名人」の一人として、必ずと言っていいほど、ヴァージニア・ウルフの名前が挙げられていることに気づいた。

でも、

1940 年代初頭に亡くなった人であったし、世界初の抗精神薬とされるクロルプロマジンも、躁うつ薬であるリチウムも、第二次世界大戦後に発見・開発されたから、薬剤治療はほぼ受けていなかっただろうな。。。 せめて、バルビツール酸系薬とかを服用していたのだろうか。。。? 

とか、

たとえ抗精神薬が存在した時代に生きたとしても、それで症状を抑えてしまったら、ヴァージニア・ウルフをヴァージニア・ウルフたらしめた作品は、後世まで残らなかったのではないかな。。。? 

などと、想像した。

代表的な抗精神薬の歴史(発売年)を、この写真にざっくりとまとめてみた。クロルプロマジン (1952年)、ハロペリドール (1958年)、クロザピン (1969年)、リスペリドン (1996年)、アリピプラゾール (2006年)、リチウム (1949年)、バルプロ酸 (2002年)

 

精神科とその薬剤治療への興味にどっぷり浸かっていたファーマシーテクニシャン時代の後、私は、日本の薬剤師免許を変換し、英国の薬剤師になった。

それまでの知識や経験を活かし、英国でそのままストレートに精神科専門薬剤師になるという道もあった(のかも知れない)。でも私は結局、英国の新卒薬剤師としての就職先としては、急性期大学病院を選び、最初の2−3年は、ありとあらゆる身体的疾患を扱う臨床ローテーション業務を廻り、気づけば、精神科とは対極の分野とも言える、感染症専門薬剤師になっていた。

私のこれまでの道のりにご興味のある方は、こちらのエントリ(⬇︎)をどうぞ

 

ヴァージニア・ウルフのことは、すっかり脳裏から忘れ去られていた。

 

この自身のブログ「日英薬剤師日記」を始めたり、その後、新型コロナウイルス (COVID-19) の世界的パンデミックが勃発するまでは。

 

この「ヴァージニア・ウルフの足跡を訪ねて」の話は、次回へ続きます。

 

では、また。