今日は、7月末日ですね。
英国では、研修医たちの1年間の訓練の最終週でもあります。
私は、これまで英国でおよそ 10 年間病院薬剤師として働いてきて、数えきれないほどの数の研修医の先生たちと接してきました。
今回のエントリでは、その中でもことさら記憶に残る2人を紹介してみたいと思います。
一人目は、ブルガリア人の「 I 先生」。
今年度 (2022-23 年度) の研修医1年生の一人でした。
もうね、最初は、どうしようもないほど(絶望的)レベルの医師だった(苦笑)
あまりにズボラな仕事ぶり(例:患者さんの退院薬の処方で、入院中ずっと服用していた薬の半数以上の品目が抜け落ちていて、私に指摘されるまで、本人は全く気づいていなかった、とか)に、私自身、何度、開いた口が塞がらなかったか知れない。
でも、憎めないところがあった。彼の苗字はロシア系で(恐らく)貴族の末裔なのでは? という気品を漂わせている人でもあった。
それに、よくよく考えたら、よくやらかしていたエラーも、実は、英語圏で訓練を受けてこなかった医師が、英国のシステムに慣れていない故に起こしているんだろうなあ。。。と思う節もあった。私自身、英国で最初に働き始めた頃のことが I 先生の姿に投影され、自分の過去がフラッシュバックすることが、たびたびあったのだ。
そして、病棟スタッフたちの会話を耳にしているうちに、I 先生はブルガリアの医学校を卒業したけれど、将来は「航空医師(パイロットとか客室乗務員などを専門に診る医師)」になりたくて、その訓練を受けるため英国へ来た、ということを知った。ブルガリアでも数年間研修医をしていたのだけど、英国の医療システムに慣れるため、このロンドン郊外の病院で、再び研修医1年生からやり直しているのであった。
ところで、日本で医師免許を取得し、その免許を変換し英国で働きたい方は、ある程度の人数、いらっしゃるはず。でも、この「研修医ポスト」を得るのが難しく(ほとんどの者が)挫折すると聞いたことがある。
だから私は、この「 I 先生」、英国圏外で医学教育を受けたのにも関わらず(ひょっこりと)英国へやってきて、ロンドンの大学病院での研修医トレーニングのポジションを得れたということは、本質的には優秀な人なんだろうな、とも思っていた。
そんなある日のことだった。病棟のナースステーションで、2人隣合わせのデスクで働いていた時、I 先生が突然、
「マイコって、日本人?」と聞いてきた。
「そうですよ」と答えると、
「日本って『ブルガリアヨーグルト』があるでしょ。日本へ行った時、食べたんだけど、旨かったな」と、話始めたのだった。
びっくりして、
「え、日本へ行ったことあるんですか? いつ行かれたんですか?」と尋ねると、
「うーん、2010 年だったかな。。。。18 歳の時だった。ボクの(人生初の)ガールフレンド、日本人だったんだ。で、彼女と一緒に、日本へ行ったんだ」
「えーーーーーーーっつ!!!」
それを聞いてね、もう、私、興味深々。彼のこれまでを根掘り葉掘り、質問することになった。
「で、そのガールフレンドとは、いつ、どのように出会ったの?」
「この国(=英国)のハイスクール (High School) で、一緒だった」
で「ハイスクール」と彼が口にしたその瞬間、私は即座に「あ、I 先生、英国でずっと教育を受けてきた人じゃない」と分かった。英国で生まれ育った人、もしくは長い間教育を受けた人であれば「中・高等学校」は「セカンダリースクール (Secondary School) 」と言うからね。恐らく、ブルガリアで生まれ育ったけど、10 代の途中から、英国の寄宿学校とかに入学するために英国へやってきて、そこで高等教育を受けたのであろうと推測。
「でもね、その日本人のガールフレンドとは、僕がブルガリアの医学校に入学することになって、ブルガリアと英国で離れ離れになり、別れてしまったんだ。。。」とポツリと漏らした。憂いを秘めた、悲しげな横顔だった。
英国にはこういった医療従事者が星の数ほどいる。祖先のルーツから2重もしくは多重国籍で、数カ国語を難なく流暢に話せる。初等教育や高等教育も、親の仕事とかの関係で、世界各国で受けていることが多い。そして医療系の大学に入学する場合は、自分の持つ国籍の中で授業料の安い国の大学に入学。そして免許取得後、英国に戻ってきて免許を変換し、より高収入を得ていくというパターン。
当初はいい加減な人という印象しかなかった I 先生、この日の会話以来、ずっと距離が縮まった。それからは毎日「マイコ〜〜〜!」とチャーミングな笑顔を振りまいてくれている。
それにしても、I 先生は、ユニークな生き方をすることになるだろうねえ。
航空医師では収まりきれず、将来は彼自身が宇宙ロケットとかに搭乗するような医師になるのでは。。。? とも想像している。臨床現場の医師としての腕は正直「?」だけど、確かに地頭いい人だし。
そうそう、I 先生によれば、日本の「ブルガリアヨーグルト」は、本場ブルガリアで生産しているヨーグルトより、格段に美味しいんだって。
明治さん、本当に凄いです!
2人目は、ギリシャ系米国人の A 先生
A 先生は、祖父母の代でギリシャから米国に移住し、彼女自身はニューヨークで生まれ育った人だった。私の記憶に間違いがなければ、2018-2019年度の、私がローテーションの一環として働いていた、ロンドン・サリー州境界の病院(リンク下⬇︎)の研修医だったはず。
こちらの病棟(⬇︎)で一緒に働いた研修医の一人でした
「米国で医学部へ行くのは、莫大なお金がかかる。私の両親の財力では無理だった。でも、生まれ育った地域がユダヤ系が多く住むエリアでね。近所の人たちから、医者になりたければ、イスラエルのテルアビブ大学に入学すればいいって聞いたの(→注:米国ニューヨーク州に在住している若者へ優遇入学制度があるらしい)。祖先のルーツであるギリシャが経済破綻した頃であったため、結局、テルアビブ大学を卒業した。で、その後は、世界中で色々な職経験を積んでみたくて、研修医の訓練地としては英国を選んだの」と言っていた。
前述の I 先生のケースとも類似するが、英国の医療機関で働いていると、このように世界中で教育・訓練を受け働いてきた、さまざまなバックグラントを持つ人と知り合うようになる。
医療というものは、ある程度、世界共通だから、英国では「技術系移民者」として受け入れやすい職業であることが大いに影響している。私も日本で薬剤師免許を取得したけど、1年間の海外薬剤師免許変換コース課程を修了したことにより、英国の薬剤師免許を取得したし。それなりに難しい規制もあるけれど、他の国よりは遥かに柔軟な措置で世界中からの医療従事者を受け入れている英国は、本当に素晴らしいと思う。
私が日本の薬剤師免許を、英国の免許に変換した方法にご興味のある方は、過去のこちらのシリーズ(⬇︎)をどうぞ
ところで A 先生は、当時、毎日一緒に働いているうちに、なぜか(20 歳以上も歳の差のある)私のことに興味を持って下さったようだった。
そして熱心に「今度一緒に、夕食に行きましょう」と誘ってきた。
最初は、社交辞令だろうと思っていたが、A 先生からのお誘いは、幾度となく来た。
「現在、自分が住んでいる近所に、ジャパニーズレストランがある。そこで一緒に夕食をしましょう!」と。
私は本来(超)非社交的な人。こういったお誘いには、滅多に乗らない。でも、A 先生は真面目で誠実な方だったので、お誘いを何度もはぐらかすのは、ちょっと失礼よね。。。とも思い始め、一緒に食事をすることになった。
でもね「日本食に興味がある!」と言っていた A 先生、いざ日本食レストランの写真付きのメニューを見たら、怖気づいてしまったみたい。
私が「今日は久しぶりの日本食だなあ。ちらし寿司、美味しそう! これで、お願いします」とそそくさと注文する一方で、
「え、え、え、ちょっと待って。SUSHI って。。。生ものよね。ちょっと勇気がいるなあ。。。うーん、TERIYAKI ってグリルのことでしょ。火が通っているわよね。これにしてみる。。。」と恐る恐るオーダー。
あ、先生、日本食、初めてなんだな。実は生もの、苦手だったんだ。。。。そういえば、ギリシャ料理って、お肉とかお魚とか、ほとんど火の通った料理ばかりだ。なるほど「TERIYAKI = 照り焼き」は、妥当なチョイスだ。本当は、先生の祖国であるギリシャレストランにすればよかったかな。。。。などと、自分の気の利かなさを後悔した。
でも、そんな心配をよそに、食事中の2人の会話は大いに盛り上がった。魂が共鳴していると言うのか、この人とは、もしかしたら遠い昔にどこかで会ったことがある気がするなあ。。? なんて感覚に陥り、長い時間話し込むことになった。
先生がイスラエルの医学校を卒業したことから、私も 1999 年にイスラエルを一人旅した時の思い出を話した。
私:「エルサレムの旧市街を歩いていたら、あまりの汚さに仰天しました。もし再訪する機会があれば、きっと『ドメストス (Domestos)(→注:日本でいうキッチンハイターのようなもの。英国を代表するブランドの強力な漂白剤)』を大量に空輸して、町中を掃除したいと思いましたよ」
A 先生:「あー、それ、私も同じこと思った! もうね、ダマスカス門の前で開かれる市場の日の終わりには、誰も後始末をしないゴミの山が溢れ、思わずその汚さに、私、カメラのシャッターを切る音が止まらなかったのよね」
私:「あ、その光景、私も目の当たりにしました! 私も写真(実物下⬇︎)に撮りました!!」
私:「それから、私、イスラエルを去るときに、テロリストと疑われたのか、ベン・グリオン空港で3時間以上も尋問されたんですよ。飛行機に乗り遅れるんじゃないかと、冷や汗モノでした」
A 先生:「イスラエルから出国する者は、ほぼ全員、そのたぐいの取り調べを受ける。私なんか、大学の休暇のたびに米国へ戻る際、空港でいつもスーツケースの中身を全部ぶちまけられて、正直、見られたくないもの(下着とか女性の衛生用品とか)もたくさんあって、毎回、とても恥ずかしかった。。。」
などなど、イスラエルを実際に訪れた者たちでなければ(ほぼ)知り得ないであろうエピソードに、2人笑い合った。心地よい時間だった。
そして、この食事会の終わり頃、私は A 先生に
「2年間の英国での研修医訓練が終わったら、どうするんですか?」と聞いてみた。
「絶対に、米国に戻る。英国国営医療サービス (NHS) の労働条件は良くない。数年前までは、がん専門の医師を目指していたけれど、今は、予防医学に興味が変わりつつある」と話してくれた。
そして A 先生は、
「私ね、米国、ギリシャ、イスラエル、英国の病院で働いてきたけど、あなたは、私がこれまで出会った中で、ダントツ一位の薬剤師よ」と、真剣な眼差しで語りかけてくれたのだ。
(いやいや、先生は、まだとても若く、これからきっと、私なんかより、遥かに一流の薬剤師に出会うはずですよ。。。)
と思ったが、有難い言葉だった。
楽しかったですねー、是非また、こういった機会を設けましょう! と互いに言いつつその日の食事会はお開きとなった。でもその後、A 先生は、私が勤務していた病院での1年目の研修課程を終え、2年目の研修は全く別のエリアの病院へ移った。2人とも忙しくしているうちに新型コロナウイルスのパンデミックとなったため、A 先生とはこれが最初で最後の「女子会」となった。
正直「友人」と言うには、あまりに年齢が離れすぎていた。でも、世代や、生まれた国、バックグラウンドが全く異なる者でも、魂の奥底からこれほどまでに分かり合えることがあるのだなという経験をした、不思議な出会いだった。
その一方で、A 先生の苗字はギリシャ系の中でも綴りがことさら難しく、私は記憶力の悪さゆえ、もう思い出せない。だからネットでサーチしようにもできず、A 先生の消息は現在、全くもって不明。
でも、美しく聡明な方だったから、今は米国へ帰国し、きっと医師として充実した人生を送っているはず。
ロンドンは、世界有数の国際都市。そこで働く医療従事者は移民が多い。英国で生まれ育った人でも、ロンドンへやってくる目的は「短期間の研修の場所」と捉え、ある程度経験を積んだ後は、故郷の町へ戻って働く者も多い。人の流動の激しい街だから、その分、出会いも別れも桁外れの数ある。
でも、そんな場所でずっと働き続けている私としては、彼らが「英国での研修医時代」を振り返った時に「そういえば、あのロンドン郊外の病院で、日本人薬剤師と働いていたことがあったな。彼女、今、どうしているんだろう。。?」といった感じで、記憶の片隅に残る人であってくれたらいいな、と思いながら、毎日、働いている。
今週水曜日(8月2日)からまた、研修医たちの新年度が始まる。
今年度は、どんな研修医たちと働くんだろう。
さらなる新しい出会いを、楽しみにしている。
では、また。